第10話 決意

 それから、いつも通りの朝を迎えた。父をのぞいた四人で朝食の食卓を囲む。今日の朝食はフレンチトーストだった。母のフレンチトーストに負けないくらい、穂香さんのフレンチトーストはすごく甘くておいしかった。


「唯、これ初めて食べるけど、好き」


 唯ちゃんは初めて食べるフレンチトーストに感動して、目を輝かせている。


「なんで、お家ではお手伝いさん作ってくれなかったんだろ」


 ちらりと藤原くんを見て、唯ちゃんは口をとがらせた。


「ああ、俺が嫌いだったんだ。甘ったるいし」


「えー、あきちゃんのせいだったの。なんか、むかつく」


 唯ちゃんの容赦のないダメ出しに、穂香さんがフォローを入れる。


「まあ、あきくんフレンチトースト嫌いだったの。私の弟といっしょだわ。ごめんなさい、何か違うものつくるわね」


 穂香さんの言葉に、藤原くんはあわてて訂正する。


「今は、食べられるようになったから、大丈夫です」


 ここまで言って、藤原くんは穂香さんを真正面から見据えた。


「俺、子供の頃甘いもの得意じゃなくて。いつも、姉に食べてもらってたんです。こんなに甘いもの食べたら太るって言って食べてくれました。今思えば、俺ってすごい、わがままですよね」


 藤原くんの話にわたしは、肝を冷やした。ここまでお姉さんと自分のことを言ったら、穂香さんは藤原くんが弟だと気づくんじゃないだろうかと。


 穂香さんは一瞬、表情がかたまり藤原くんの顔をじっと見つめた。まるで、二十歳の藤原くんの顔に中学生の藤原くんの面影をさがすように。


「あきくんは、わがままじゃないわよ」


 穂香さんは何事もなかったように、いつものやさしい顔に戻った。よかった、気づいていないみたいだ。わたしは、すばやく話題を変える。


「わたしも、フレンチトースト大好きだよ。甘くてふわふわしてて口に入れた瞬間幸せになるよね」


「わかるー。そうだよね、お口の中が幸せでいっぱいになるんだよ。すごい食べ物だね」


 唯ちゃんがわたしの話にのってくれた。穂香さんも、幸せの味に同意するように大きくうなずく。


「甘いものを好きな人は、口に含むだけで幸せにも元気にもなれるの。あきくんのお姉さんは、けっして弟に押し付けられてたって思ってなかったはずよ。幸せを分けてもらってたって思ってたのかも」


「……そうだったら、いいんですけど。今度、いっしょに姉と甘いものを食べてみたいです」


 そう言うと、厚切りのフレンチトーストにフォークを突き刺しがぶりとほおばった。


「うん、幸せの味かどうかはわかんないけど、うまい」


 その正直な言い分に、女子三人はいっせいに笑ったのだった。

 朝食の後、わたしは普段通り家事をこなす。藤原くんは二階の和室にこもって一階には降りてこなかった。


 藤原くんにもいろいろ考えがあるのだろうけれど、本当にその時がくれば犯人を迎え撃つ覚悟なのだろうか。


 そんな、危ないことはしてほしくない。かといってほかにいいアイデアも浮かばずに、いつのまにかお昼になっていた。父は穂香さんの言葉通り書斎から出てこない。今日はまったく姿を見ていなかった。


 わたしは書斎の重厚な扉を見ながら、父にすべてを打ち明けてみようかという気持ちになっていた。


 小説家ならば、わたしたちが六年後の世界からタイムスリップしてきたという荒唐無稽な事実を、すんなり受け入れてくれるかもしれない。信じてくれれば、今日屋敷から離れて事件を回避できるのではないだろうか。


 キッチンをのぞくと、穂香さんは唯ちゃんと一緒に昼食をつくっている。わたしが書斎に入っても気づかないだろう。父と話すには絶好のチャンスだった。


 そっと忍び足で書斎に近づき、軽くノックをする。しかしいくら待っても返事がない。しびれをきらし、悪いと思いつつもドアをあけた。


 壁一面に書棚が設置され、本で埋め尽くされていた。穂香さんの話によれば、ほとんどの本はこの屋敷を建てた当時の当主の蔵書だそうだ。


 部屋の奥の窓に向かって、デスクが置かれていたがそこに父の姿はなかった。部屋を見まわしても、どこにもいない。


 いったいどこに、行ったのだろう。わたしが気づかない隙に外へ散歩に出かけたのだろうか。帰ってくるのをじっとここで待っているわけにはいかない。穂香さんが不審に思う。


 なんの目的も達成されないまま、書斎から出るしかなかった。

 何もできないまま、時間だけが刻一刻と過ぎて行った。昼食後はあの女中部屋にこもって、なすすべもなくフルートを練習していた。


 最初は「G線上のアリア」を練習していたけれど、ゆったりとした旋律を奏でるには今のわたしの焦った心情はあまりにもそぐわない。


 気分を変えようと「愛の挨拶」を吹こうと思った。

 母が大好きだった曲、父が口ずさみ母にプロポーズした曲。わたしが産まれるきっかけになった曲といったら大げさかもしれないけれど、すべての始まりの曲ともいえる。


 フルートを構え、リッププレートに下唇をのせ歌口に息を吹き込んだ。甘い旋律を奏でながら、頭では母のことを考えていた。もし、本当に父と穂香さんを殺害したのなら、母の動機はなんだったのだろう。


 不倫をされた恨み? サバサバした性格の母からは想像もできない理由だけど。わたしが見ていた母の姿は、表層的なものだったかもしれないわけで。


 母に聞けるものなら、聞いてみたい。本当に、父と穂香さんをどう思っていたのか……。


 ピタリと「愛の挨拶」の旋律がとまった。

 リッププレートから唇を離し、息を吹き出す代わりに言葉を吐き出していた。


「お母さんに、直接聞いてみたらいいんじゃないかな?」


 言葉に出した瞬間、それが正解だと全身が震えた。ここで母を待つのではなく、わたしから母に会いにいけばいいんじゃないだろうか。


 六年前の今日の記憶をたどると、母は朝から仕事に出ていたがわたしの夕食をつくりにいったん帰宅していたはず。


 あの日、わたしが部活から帰ってきた時間は六時半。その時にはラップのかかったオムライスはまだほんのり温かかった。


 ということは、五時ぐらいには帰宅していたんじゃないだろうか。帰宅した母にわけを話し、もしふたりのことを殺したいほど恨んでいたのなら説得してみよう。


 母は六年分成長したわたしに驚くだろうけれど、意外に信じてくれるかもしれない。なんとか母をとめられたら、母の命も伸びるかもしれない。


 父が亡くなってから、母の乳がんがみつかった。みつかった時には、手遅れでその半年後に亡くなった。


 ストレスが多いと、乳がんは悪化すると病院の先生に説明された。母は、父の死後のストレス、そしてひょっとすると罪をおかしたストレスにもさらされていたのかもしれない。


 わたしはフルートをおいて、あわてて部屋から出ていきリビングの柱時計の時刻を確認した。


 ローマ数字がならぶ象牙色の文字盤の上で、時計の針は二時半をさしていた。

 ここから東京の自宅に帰るには二時間もあれば、十分だ。いますぐここを出発すれば四時半には到着できる。夕食をつくりに帰る母と会える。


 わたしはバタバタと螺旋階段を駆けあがり二階の和室に入ると、藤原くんが出窓に腰かけ何をするわけでもなく海を見ていた。


 突然入ってきたわたしに、面食らった顔をする。


「どうしたんだ? そんなに、あわてて」


 わたしは説明する時間もおしく、部屋の隅においたリュックを手に取った。


「あの、ちょっと出かけてくる。夜までには帰るから」


「出かけるって、どこに?」


 不審な顔をする藤原くんに、すべて話してしまおうかと思ったけれど、止められるかもしれない。藤原くんを振り切って、東京へ帰る自信はなかった。


「えっと、大丈夫。危ないことはしないから、絶対夜には帰る。わたしを信じて」


 わたしは、琥珀色の瞳をじっと見おろす。とにかく、わたしを信じてほしい。

 唯ちゃんのために、藤原くんとわたしのために。何より父と穂香さんを救うためにわたしは行動する。


 わたしの強いまなざしから、藤原くんはふっと視線をそらせた。目をふせたまま、ぼそりとつぶやいた。


「いいよ、キスしてくれたら信じる」


 ……はっ? なんでそうなるの。今の状況とキスにどんな因果関係があるんだろう。手短に二百字以内でまとめて教えてほしい。

 絶句するわたしをおいて、藤原くんはそっぽを向いたまま下唇を突き出した。


「できないよな。なら、行かせられない。ここにいて――」


 藤原くんの台詞は、途中で消えた。わたしが、彼の口をふさいだから。うつむく藤原くんの前にさっとしゃがみ込み、すばやくキスをした。


 ファーストキスを、自分からする女の子なんてそうそういないだろう。それくらい、せっぱつまっていたのだ。こんな無理難題を押しつけて、わたしを引き留めようとした藤原くんにも腹がたったが、そんなことをグズグズ言っている暇はない。


 今彼がどんな顔をしているか、目をつむっているのでわからない。唇が重なった部分がすこし震えているような気がするのは、きっと気のせいだ。


 一瞬の永遠のような時間がすぎそっと唇を離して、これだけはわかってほしくて彼の瞳をのぞき込む。


「やけくそで、キスしたと思わないでね。わたし、ちゃんと藤原くんのこと好きだよ。いつからかわからないけど、好きになってた。だから、信じて」


 彼の瞳はこぼれ落ちそうなほど見開かれ、わたしの姿をうつしていた。


「それ、ずるいだろ、今言うの」


「えっ? なんで。ずるいのは、キスしろなんて言った藤原くんでしょ」

「いや、俺はなつを行かせたくなくて――」


 ふたりが言い合っていると。開いたガラス戸から笑い声が聞こえてきた。


「ふふふっ、みーちゃった。キスしてるの、唯みちゃった! えーいいなー仲良しだね」


 かわいい唇をにゅっとあげて、唯ちゃんが戸口に立ってニヤニヤと笑っていた。

 み、見られてた。てっきりおもちゃ部屋で遊んでると思ってたのに。なんてタイミングで出てきたんだろう。


「いや、いまのキスはそんな色っぽいものではなく、口封じに近くて」


 藤原くんは動揺して、わけのわからない言い訳をはじめた。そんな彼に背中を向けわたしは唯ちゃんの前にひざまずく。


「あのね、唯ちゃん。わたしこれからちょっと、お出かけするけど絶対戻ってくるから待ってて」


 わたしの真剣さが伝わったのか、唯ちゃんは少し大人びた顔をしてうなずいた。


「うん、唯、なっちゃんのこと信じてるよ。大好きだもん」


 藤原くんと違って、話が早い。わたしはぷっくり膨らんだ頬にキスをした。


「じゃあ、行ってくるね」


 そのままリュックを肩にかけて、出て行こうとしたわたしの背中に藤原くんの声がかかる。


「帰ってきたら、さっきのやり直しするからな」


 わたしは、振り向かず少し肩をあげたのだった。


 お昼寝をしている穂香さんを起こさないように、そっと玄関から外へ出た。石柱が建つ門をくぐると、アスファルトは傾いた太陽に照らされ輝いていた。


 わたしは由比ヶ浜駅へ続く坂道を、一気に駆け下りて行った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る