第四章 行合いの空
第1話 お母さん
夕方の喧騒に包まれる東京駅の人込みをかきわけ、中央線に乗り換えると自宅のある最寄り駅で降りた。そのまま自宅マンションまで足早に向かう。
瀟洒なエントランスに到着すると、リュックから鍵を出しオートロックのドアを解除する。エレベーターに乗りこみ、五階のボタンを押した。
どうか、母が家にいますように。
そう願いながら、自宅前に付くとまた鍵を出して鍵穴を回した。そっとドアを開けて下に視線を落とすと、タイル張りの床には母の靴はなかった。がっかりしたけれど、そのうち帰ってくるかもしれない。気を取り直して部屋へ上がった。
リビングのドアを開けると、いつも使っているディフューザーのホワイトリリーの香りがした。懐かしい我が家の匂い。わたしは、やっと帰ってきた。
しかしここは、六年前の家なのだ。母が帰宅してわたしがいたら、びっくりするというよりも侵入者だと騒がれたらどうしよう。
フローリングの床に視線を落とし、どう言えば母に不審に思われないかと考えていた。ふと人の気配を感じて顔をあげると、リビングのテレビの横にダークな色のパンツスーツを着て母が立っていた。
わたしはその場で飛び上がるほど驚いたのだが、母は突然部屋に入ってきた侵入者に驚いていない。穏やかな顔をして立っている母へ、心の準備もできないまま説明を始めた。
「あの、突然でごめんなさい。わたし、こう見えてあなたの娘の夏帆なんです。実は込み入った事情があって――」
わたしは、母が口をはさむ前に六年後からきたことを一気に説明した。つらつらと早口でまくしたてるわたしを止めもせず、母はじっと耳を傾けていた。
そしてわたしがひとこと最後に、「信じてくれる?」と言うと、少し困った顔をしてうなずいた。
お母さんは、信じてくれた。突然現れた六年後のわたしを無条件で信じてくれた。それだけで涙が出そうになる。でも、まだまだこれで終わりじゃない。
「あの、これからお母さんはどこに行くの? ひょっとして鎌倉に向かう予定とか――」
もし向かうと言われたら、なんとか説得してあの別荘に行かないようにしなければ。そうわたしが固く決心をしたら、なつかしい母の低く落ち着いた声音が聞こえてきた。
「鎌倉には、行かないよ」
お母さんは、拍子抜けするほどあっさりと鎌倉行きを否定した。わたしは、その言葉を聞いて心底うれしくなる。
よかった、お母さんは警察に嘘をついていなかった、鎌倉に行っていないのだから犯人なわけがない。違ったんだ。
「夏帆、あの時はごめん。目がキョロキョロしてた。嘘をつかせたね」
母が何を言っているのか、わからない。まだ、事件は起こっていないのに。
「お母さんの懐中時計を拾ったんだね」
突然懐中時計のことを言われ、わたしは面食らう。どうしてわかったのかと疑問に思い、デニムのポケットの中に入れた懐中時計がちゃんと入っているかどうか布越しに確認した。
「なんで、知ってるの?」
母はわたしの問いに答えてくれない。
「夏帆、大きくなったね。お母さん、うれしい」
わたしをみつめる母の目は、どこまでもやさしかった。
「もう、好きな人はできた?」
なぜ、そんなことを訊かれるのかさっぱりわからないが、わたしは素直に答えていた。
「うん、好きな人はできたよ。藤原彬くんっていう人」
藤原くんの名前を聞き、母の眉がピクリと動いた。
「柏木穂香さんの、弟ね。そう、あの子と出会ったのね」
「お母さん、藤原くんのこと知ってるの?」
母の唇から、ふふっと笑いがもれた。
「穂香さんが産んだ赤ちゃんを、とてもやさしい顔をして見てた。でも、あの子おかしいの。お母さんが『かわいいね』って話かけたら、『かわいくない』って逃げたんだよ」
この話は、藤原くんにも聞いた。あの新生児室で隣に立っていたという女の人って、お母さんだったの。でも、どうして?
「なんで、その病院にいたの、お母さん。穂香さんに会いに行ったの?」
母はこくんと、うなずいた。
「どうして?」
「どうしてって。お祝いを言いたかったから」
お祝い? どうして母がお祝いなんか、言いに行くのか。疑問がどんどんふくれあがっていく。
母は、穂香さんを恨んでいるんじゃないの? 愛する父を取られて、憎んでたんじゃないの? 母の気持ちがわたしには、わからない。
「お母さんが病室に入って行ったら、穂香さんすごく驚いてた。そりゃそうよね。普通なら不倫された妻なんて、夫を奪った相手を殺したいほど憎んでると思うよね」
「穂香さんのこと、憎んでないの?」
母はゆっくり目を閉じ、首を横に振った。
「まったく憎んでないって言ったら、嘘だけど。でも、お父さんが好きになった人だから。穂香さんとっても、かわいくていい人だったし」
母が何を言っているのか、さっぱりわからない。
「穂香さん、お母さんに謝ったのよ。演技じゃなくて、本当の涙を流して。穂香さんは女優という仕事も何もかも投げ捨てて、お父さんといっしょになることを選んだんだって思ったら、怒れないじゃない」
「ちょっと待って、意味がわからない。普通、結婚したら不倫って悪いことでしょ。それをそんなあっさりと許せるの?」
お母さんは、わたしが言った『普通』という言葉を確かめるように、自分の口で反芻した。
「普通、か……。お父さんが、普通のお父さんじゃないって今の夏帆ならわかるよね。お父さんは、夫や父である前に宗平東吾っていう小説家なんだよ。宗平東吾という小説家に普通は通用しない」
きっぱりと言い切られては、わたしはなすすべもない。なすすべもないけれど、娘としてちょっとは反論させてほしい。
「お母さんは、それでよかったの? 普通じゃないお父さんに、振り回されただけなんじゃないの?」
わたしの反撃なんて、甘っちょろい子供の戯言だった。
「お母さんは、もともと小説家宗平東吾のファンだった。お父さんがお母さんにしばられて、いい小説が書けなくなる方が嫌なんだよ」
「何それ! 意味わからない」
お母さんの父への愛がわたしの範疇を軽く超えていて、もう子供のように涙を浮かべて駄々をこねるしかできなかった。でもお母さんが許しても、わたしは許してはいけないような気がした。
「そうだよね、夏帆には意味わかんないよね。夏帆は、お母さんじゃないから怒っていいんだよ」
いつも溌溂としていたお母さんの顔にさっと、影が落ちた。
「人を好きになるって、難しくて苦しいね。それでも、好きになって得るものはたくさんある。夏帆もそう思わない?」
「そんなこと言われても、わたしには難しすぎて理解できない」
すねたような言い方に、お母さんは慈愛のこもった笑みを浮かべわたしのポケットを指さした。
「その懐中時計ね、お母さんはもう必要ないから穂香さんにあげたの。それは、お父さんがお母さんと結婚する時にくれたもの。これから、ふたりの時間を刻んでいこうって」
そこまで言って、お母さんは肩をすくめた。
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