第2話 黄昏時
「そんなこと言ったくせに、お父さん、自分からお母さんとの時間止めるんだもん。もう持っててもしょうがないから、穂香さんに渡した。これからお母さんの代わりにふたりの時間を刻んでいってほしいって言って」
「そんなの、おかしいよ。思い出の品まであげるなんて!」
お母さんの話が全然飲み込めず、わたしはぼろぼろと涙をこぼしてわめいていた。
「そうだね、夏帆には難しいね。でも、こんな話を夏帆とできて、お母さんはうれしいな。もっと、したかったけど――」
お母さんはそう言って、さみしそうに笑った。その顔に、わたしは不安をかきたてられる。
「これからも、できるよ。六年たったら、わたし立派な大人になってるんだから。わたしの恋バナ聞いて」
父と穂香さんは、亡くならない。これから別荘に戻って襲ってくる犯人と全力で戦う。そうしたら、お母さんは病気になってもなおるはず。絶対なおるはず。
「あのね、お母さん聞いて。お母さんはこれからガンになるの。だからこまめに検査して。早期で発見できたら、助かるから……。だから――」
わたしの言葉を、お母さんはさえぎった。
「さあ、もうそろそろ時間がきそう。お母さんは行かなくちゃ」
「どこに行くの? まだわたしのご飯つくってないよ。あの時のオムライスおいしかった。ねえ、まだ仕事にいかないで」
追いすがるわたしをお母さんは少しだけ首をかしげて、愛しそうにみつめる。その顔が心なしか、透けているような気がした。
「夏帆はとっても、がんばったね。お母さんはいつも、見ていたよ。お母さんがいなくても、大丈夫」
わたしはたまらず、叫んでいた。
「そんなことない! わたしお母さんと、もっといっしょにいたかった。いかないで、おいていかないで」
涙でかすむ視界の中、必死でまばたきもせずお母さんの姿を目の奥に留めようとする。それなのに、お母さんは足元からどんどんかすんでいった。
「お母さんは、夏帆が大好きだよ」
もう、薄くほほ笑むお母さんの顔しか見えない。わたしは、最後の悪あがきで手を伸ばし引き留めようとしたけれど、できなかった。
伸ばした手は、空をつかむ。お母さんに触れようとした手のひらの先には、六年前には存在しなかった黒塗りの小さな仏壇が、そこにあった。
伸ばした手はぱたんと落ち、肩にかけていたリュックからのろのろとスマホを取り出し電源を入れた。カラフルなアルファベットが現れ、しばらくたって起動すると今日の日付と時刻を表示した。
あの別荘では、日付は表示されなかったのにここでは表示された。白いテレビ台に目をむけると、デジタル時計があった。それは、わたしの高校の卒業記念品だった。
デジタル時計の西暦は、六年前ではなくわたしが別荘に行った年、つまり今だった。
ここは、六年前の世界じゃない。わたしたちはタイムスリップをしたのでは、なかった。では、亡くなったはずの穂香さんと父が生きていたあの鎌倉の別荘は、なんだったのだろう。
混乱する頭をかかえ、その場に立ちすくんでいた。しばらくすると、わたしの足にオレンジ色の光があたる。
リビングの掃き出し窓からオレンジ色の夕日が差し込み、フローリングの床を四角く切り取っていた。もうすぐ夜がやってくる。
わたしはとにかく唯ちゃんと藤原くんが待っている別荘に、帰らなければならないと強く思った。ふたりに約束した。夜には帰ると。
頭の芯はしびれていて、まだぼんやりしている。それでも仏壇にある母の写真に手を合わせ、心の中で祈る。どうかわたしたちを、守ってください。
わたしは仏壇に背中を向けリビングから出て行き、玄関で脱いだサンダルに足を入れた。
きた道を逆にたどり、由比ヶ浜駅に到着すると日はすっかり沈み、かすかな残照が空に浮かぶ雲をほんのり茜色に染めていた。わたしは江ノ電の踏切を超えて、別荘へ急ぐ。別荘に近づくにつれあたりはどんどんと暗くなっていった。
昼と夜が交わる黄昏時。あたりの景色はどんどんと夜に侵食され、色を失っていく。別荘につくころには、とっぷりと日は暮れどこからともなく虫の声が聞こえてきた。
石柱の建つ門をくぐり、一歩一歩石畳をふみしめて進みクラシックな木のドアの前に立つ。ドアにはめられたすりガラス越しに中の灯りが見えない。
この時間は玄関ホールに灯りがともっているはずなのに。不安で胸が押しつぶされそうになったがドアノブにそっと手をかけ、意を決して回した。
「ただいま」
恐る恐る発したわたしの声が、玄関ホールに反響する。唯ちゃんが走ってきておかえりという声も、穂香さんが濡れた手をふきながらおかえりという声も、何も聞こえない。
ただわたしがリビングをめざして歩く床の軋む音だけが、耳に聞こえてくる。
リビングに入ると、そこも闇に沈んでいた。目を凝らしあたりを見ても、わたしが昼間出て行った時となんら変わりがない。キッチンに目を向けてもそこに、穂香さんはいない。
さあっと、カーテンがゆれリビングの中に風が入ってきた。風にのり外から、キーキーとブランコがゆれる音がする。
わたしはテラスに出て、目をこらす。ブランコには穂香さんが乗っていた。前後に揺れるたび、穂香さんの白くゆったりとしたワンピースが風をはらみたなびいていた。
海に行った夜に二階の出窓から見た、穂香さんの姿といっしょだった。わたしが瞬きをした瞬間にその姿がふっと消え、誰も乗せていないブランコが暗闇の中揺れていた。
「あっ!」と叫びに似た声が出た。
その声はあの夜に藤原くんがもらした声に似ていた。あの時、藤原くんはわたしの母を見たのではなく、穂香さんがブランコから消えたのを見たのかもしれない。
「おかえりなさい、なっちゃん」
背後から突然声をかけられ、背中に氷水を浴びせられたような悪寒が走る。おかえりなさいと発した声は、穂香さんのものだ。わたしは悲鳴をこらえ、ゆっくりと振り向いた。
さっきまでブランコに乗っていた穂香さんが、わたしの後ろでほほ笑みをたたえそこに立っていた。
生きている人間には超能力者でもないかぎり、瞬間的に移動するなんてとてもじゃないができない芸当だ。
「ただいま」
わたしの声は、震えていた。
「そんなに怖がらないで。何もしないから。わたし、たださみしかっただけなの」
穂香さんの美しい顔は、眉がさがり薄い唇はわなわなと震えていた。わたしはその感傷に引きずられずに、問いただす。
「みんなは、どこにいるんですか? 唯ちゃんや藤原くんは?」
穂香さんは長い髪を揺らして天井を見あげ、はかなく笑った。
「二階でちょっと、寝てもらっているだけ。あのふたりにお別れを言うのは、つらすぎたから」
「あの、ここはいったいなんなんですか? あの世との境目とかですか」
わたしの貧弱な想像力では、これがいっぱいいっぱいの回答だった。
「ふふっ、ここはね私にとって夢の国かな。娘と弟、そして東吾さんの娘さんと暮らせる夢の国。とっても楽しかった」
わたしは穂香さんの台詞を聞き、目をみはる。穂香さんは最初から、わたしたちが誰なのかすべてお見通しだったのだ。
でもこの世の人でないのなら、当然のことなのかもしれない。
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