第8話 くれゆく部屋

 夕方になり、穂香さんが夕食を作り始めると唯ちゃんは手伝うと言って一階へ降りていった。わたしはフルートを吹かず出窓に座って、海を見ていた。


 海の色は日没が近づき、だんだんと色を変えていく。お日様をたっぷり浴びた、だいだい色から青い夜が迫る色へ刻一刻と変わっていく。とどまってはいられない、変化していく色。その色の脈動に見入っていた。


 ガラス戸のガラスがビリビリとノックされ、声がかかる。


「入ってもいいか」


 と問われた。


「いいよ」と返事をするとゆっくり戸がひかれ、藤原くんがするりと中へ入ってくる。


「唯をみつけてくれてありがとう。隠れてるなんて夢にも思わなかった。てっきり俺たちを追いかけて外に出たんだとばかり。ほんと、助かった」


 わたしは顔を左右にふると、切りそろえた髪が肩の上でゆれた。


「お礼なんていいよ。わたしもむかし同じことしたから、わかったの」


「どういう状況だったんだ? 押し入れに隠れたくなるなんて」


 藤原くんは、わたしを前にして畳の上であぐらを組んだ。


「ひとりで、お留守番してたの。おままごとしながら。お母さんは仕事。お父さんも家にいない」


「さみしくなったのか。唯といっしょで」


「わからない。だって、いつもひとりで遊んでたから。どうしてあの時だけ、隠れたくなったんだろう」


 たしか、唯ちゃんと同じくらいの年だった。前日の日曜日に幼稚園の運動会があり、その日は月曜日だったけれど午前中母が仕事を休んでくれた。


 お昼ご飯を食べたあと、仕事にいく母を見送ってひとりで遊んでいた。そんな日は今までにもあったのに、わたしはその日押し入れに隠れて母が帰るのをじっと待っていた。


 母があわててわたしを見つけてくれるまで。


「子供の時って、自分の気持ちをストレートに表に出せる時と、出せなくて逃げ出したくなる時があるよな」


 藤原くんは窓の外の夕日を見ながらしみじみと言葉にする。整った顔は、オレンジ色に染まりこの上もなくきれいだった。


「藤原くんも、逃げ出したくなったことがあるの?」


 一瞬、藤原くんの琥珀色の瞳にくらい影が走った。そういえば少し前に、藤原くんは『なつは俺と違って、逃げなかった』と言っていたことを思い出す。


 わたしは、彼の心の底に沈んでいるものに、爪を立ててしまったのだと後悔しても遅かった。


 藤原くんは困ったようにすこし笑って、わたしを見る。


「唯が産まれた時、俺、姉さんにどうしてもおめでとうって言えなかった。病院に見舞いには行ったんだけど、病室には入れなかった」


 唯ちゃんが産まれたのは、わたしたちが中学二年生の時だった。


「ガラス張りの新生児室の中で、唯が小さなベッドで寝ているのをこっそり見たんだ。赤ちゃんの唯をすごくかわいいと思った。でも、俺の隣に立ってた知らない女の人に『かわいいね』って言われて、素直に『はい』って言えずに『かわいくない』って吐き捨ててその場から逃げ出した。唯のこと恥ずかしいって一瞬思ってしまったから――」


 言い淀み、まつ毛がきれいにならんだ瞼を苦し気に閉じた。


「姉さんたち夫婦は、普通じゃない。不倫していっぱいまわりに迷惑かけたんだって思ったら、素直になれなかった」


 普通じゃない……。藤原くんの言葉を聞いてわたしは、はっと思い至る。

 わたしも普通じゃない家族が嫌だったんだ。わたしが隠れた時の気持ちを、今になってみつけた。いまさらみつけても、どうしようもないのに。


 前日の幼稚園の運動会で、お父さんとお母さんに囲まれる友達の姿を見たのだ。お母さんだけの子供もいたけれど、その家は普通じゃないって子供心に思った。


 母がいたら、父のことを恋しいとも思わなかったのに、ひとりぼっちになって急に父がいない普通じゃない我が家がみじめでさみしく思えた。だから、隠れたんだ。


「普通って、なんだろうね」


 うつむくわたしの顔に横髪が垂れ、半分隠してくれる。ふせた視線の先に藤原くんの組んだ両手が見えた。その手は強く握りあっていた。


「普通で安心できる時もあれば、普通で物足りなくなったりもする。その時その時の、他人と比べた標準があるだけで」


「自信がない時って、ほかの人といっしょだと安心するんだよね」


「ああ、特にテストの時な。友達といっしょの解答で安心してたら、友達も間違ってたっていうオチなんだけど。安心してた自分が超格好悪いんだよ」


「あっ、わたしもそんなことあった」


 わたしたちは、お互いの顔を見て吹き出した。普通にしばられていた過去の自分を笑ったのか。テストで失敗した自分を笑ったのか。


「俺、ほんと子供で馬鹿だった。唯のこと、恥ずかしいと思うなんて」


 藤原くんは唯ちゃんに対する罪悪感を乗り越えて、今はあんなに本当の兄妹のような関係を築いたのだろう。


 わたしは今でも自分に自信がなく、警察に母はあの日帰ってきたと嘘をついた罪悪感を抱えている。このままでいいわけがない。


 ワンピースのポケットに手を入れると、硬く冷たい懐中時計に爪があたりコツンと小さな音がした。意を決し時計を握りしめる。


「あのね、わたし藤原くんに黙っていたことがあるの」


 藤原くんの顔から、笑みが消えていく。


「懐中時計をなかなか、返さなかったのはきれいにしたいとかじゃなくて、見られたくないものをみつけてしまったから」


「何を、みつけたんだ」


 一気に緊張が走った藤原くんの顔から、視線を外さずにわたしはゆっくりと口を開いた。


「懐中時計の裏蓋に、わたしのお母さんの名前が刻まれていた。この時計はお母さんのものだった」


 驚きに目を見開く藤原くんに、ポケットから出した懐中時計を差し出した。彼は受け取り裏蓋をあけて、刻まれた名前を確認する。


「なんで、なつのお母さんのものが、ここに?」


 わたしは、ぐっと喉の奥に力を入れる。


「お母さんは、警察に質問されて鎌倉には行ったことがないって答えてた。でもこの時計がこの別荘に落ちていたわけで、ひょっとしたら――」


「それ以上、言わなくてもいい!」


 わたしの告白は、強い言葉で遮られた。


 藤原くんの態度が腑に落ちない。まるで、犯人を知っているような。そういえば、裏蓋に母の名前を見つけた夜、藤原くんは窓の外を見て一瞬声をもらした。あの驚きは、ひょっとして母の姿を庭に見たの?


「藤原くん、何か見たの? ねえ、あの日の夜、庭に何を見たの?」


 わたしは座っていた出窓から畳の上に膝立ちになり、何も言わない藤原くんにくってかかる。それでも、彼は教えてはくれない。


「俺は何も見てない」


 視線をそらせてそう強く言い切ると、腰を浮かしてわたしの肩を強い力でつかんだ。


「事件は、明日の夜起こるんだ。もう、犯人を捜している時間はない。俺がひとりで犯人をとめる。なつは唯と部屋にこもっていてくれ」


「そんな、危ないよ。相手はナイフを持ってるのに。藤原くんも刺されたら、どうするの!」


「大丈夫、俺こう見えて小学校の時、空手習ってたから」


 わたしを落ち着かせるため、わざと明るく言ったのだろうけど、そんなことで安心できない。


「そんなの、小学生の時でしょ。わたしも、何か盾とか持って犯人を迎え撃つ。藤原くんを守る」


 犯人は母かもしれないのに、頭に浮かんだのは藤原くんのことだった。


「守るのは、俺だろ? それに、こんな細い体で無理だって」


 そう言って、わたしをじっと見おろした。


「確かめてもいい?」


 少しおどけて、肩をすくめた彼の姿は中学生のようだった。細い体をどうやって、確かめるのか……。


 わかっている、答えはひとつ。そうされることは、嫌じゃなかった。むしろ彼の体温を感じたかった。


「どうぞ」

 と余裕ぶって言いつつ身構えると、彼の白いTシャツからローズの香りがふわりと漂った。華やかな甘い香りにつつまれ、わたしは藤原くんに抱きしめられた。


「ほら、やっぱり細い。ちゃんと、飯食わないと」


 背中に回された手が、熱い。ほてるわたしの背中を、出窓から入ってきた風がなでていく。


「えっと、この別荘に来て穂香さんのご飯おいしいから、ちょっとふとったんだよ。体重計乗って、びっくりした」


 わたしの人生で男性に抱きしめられるという経験は初めてで、どういう反応をすればいいかわからず、くだらないことをしゃべり続ける。


「たしかに普段はひとりだから、めんどくさい時は栄養補助ゼリーとかですます時もあるけど……これからはちゃんと食べるから」


 いまさらちゃんとした食事をとっても、明日にそなえて体力も筋力もつくわけがない。それでも、藤原くんや父や穂香さんの無事を心配しつつ、部屋にとじこもるなんてできそうもない。


「だから、明日はわたしも戦う。ふたりならなんとかなるよ。それか、あのふたりに本当のこと言って、この別荘から逃げてもらおう。それか、みんなで戦おうよ」


 戦う相手は、母かもしれないのにわたしは何を言っているのだろう。屈強な男が犯人だと思い込もうとしている。それは現実逃避だとわかっていても、言葉がとまらない。


 混乱するわたしの耳元で、藤原くんの落ち着いた声がひびく。


「ありがとう、でもその必要はない。明日が終われば、すべて解決してもとの世界へ戻れるから」


 どうしてそう言い切れるのか、わからない。わからないけれど、藤原くんの強い意志が感じられ、わたしはもう反論しなかった。


 ただ返事のかわりに、彼の広い背中に腕をまわす。暮れゆく部屋に、ふたりの呼吸音と少し早い鼓動がかさなり、日のしずむ速度で満ちていった。



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