第3話 高徳院

「これから恋に発展するにしても、適切な距離は必要ね。なっちゃんがひとりになれる部屋がいるってこと」


 穂香さんは立ち上がり、わたしを手招きするとキッチンの奥へ歩いていく。わたしもついていくと、奥には引き戸がありそれをあけると四畳半の和室があった。設えは質素で押し入れもある。


「ここね、むかしお手伝いさんが使ってた部屋なの。ようは女中部屋っていうもの。ここで、よければいつでもつかってね」


「ありがとう、ございます」


 穂香さんのやさしさが、素直にうれしい。うれしくて泣けてきた。わたしは自分のことでいっぱいいっぱいだったのに、ちゃんとわたしに気づいてくれた。


「あっ、でもちゃんとあきくんのこともかまってあげてね。なっちゃんがここに閉じこもっちゃったら、きっとすねちゃうから」


「えっ、そんな。それぐらいで、すねないですよ」


 唯ちゃんに対してはむきになる藤原くんだけど、普段は冷静な人で子供っぽいところはないと思うんだけれど。


「あらっ、男の人なんて自分が一番じゃないと嫌なのよ。ほんと、もうちょっと大人になってほしいものよ」


「それって、宗平さんもってことですか」


 自分の父親のことを、略奪愛の再婚相手の女性にたずねていた。世間一般の常識からすると、かなりおかしなことだろう。


「もちろんよ。だから、甘やかしてあげるの」


 得意げに言う穂香さんがおかしくて、わたしはぷっと、盛大に吹き出していた。


「もう、本当なのよ。なっちゃんもそのうち、わかるんだから」


 その言い方がおかしくて、わたしはとうとう声を出して笑い出したのだった。穂香さんもわたしにつられて笑うと、肩のあたりで巻き髪がふわりとゆれた。


 このやさしく美しい人をひょっとして、母が殺したのかもしれないという馬鹿な考えもいっしょに笑いとばしたかった。



 

 穂香さんとわたしの距離がすこし縮んだように、唯ちゃんも穂香さんとすっかり仲良くなって、料理を手伝ったりいっしょにお菓子をつくったり楽しそうにすごしている。


 一度海に出かけたから、満足したのかもう外に行きたいとは言わなかった。

自然と唯ちゃんは穂香さんとすごす時間が増えていった。親子なんだから当たり前のことだ。


 もう以前のように、唯ちゃんを穂香さんに取られたような気にはならなかった。

 唯ちゃんの遊び相手をしなくてもよくなり、時間ができるとわたしはあの小さな女中部屋にこもることが多くなっていた。


 こもっていてもすることがなく、穂香さんにフルートをかり練習を始めた。  愛の挨拶以外の曲も吹けるようになろうと思って。楽譜をめくり曲を探す。  知っている曲がいいと思っていると「G線上のアリア」が目についた。


 テンポのゆっくりな曲だから、練習すれば吹けるようになりそうだ。わたしは、余計なことを考えずひたすらフルートに息を吹き込みこの曲に挑み続けた。


 そうこうしていると、気づけば事件の起きる二日前になっていた。懐中時計はまだわたしが持っている。ただ漠然と、父と穂香さんを助けたいという思いがわたしの中でくすぶっているだけだった。


 洗い終わった洗濯物を外にほし、蝉時雨の中ぼんやりブランコに乗っていた。唯ちゃんはもう、ブランコに飽きたようでブランコはつねに空いていたのだ。


 芝をふむ足音がして、うつむいていた顔をあげると藤原くんだった。


 白いTシャツに太陽光があたり、レフ版のように藤原くんの顔を輝かせていた。さすが、ミスターキャンパスさまだなあ。輝くように真っすぐできれいな人だ。


 そんな人がわたしを好きになるわけがない。現に、わたしの前に立ち見おろす目はいつものキリンのように眠たい目だ。眠たげな目がふいに細められた。


「あのさ、これから、デートしない? 最近なつがひとりでいること多いから。ちょっとは付き合ってる設定を忘れないようにしとこうよ」


 もうとっくに、恋人ではないと見破られているのだけれど、わたしは黙っていた。藤原くんがわたしを好きなんて、やっぱり穂香さんの勘違いだ。わたしとはあくまでも恋人設定なのだ。


「デートってどこに?」


 穂香さんの『あきくんのこともかまってあげてね』というセリフを思い出し、一応話を合わせ場所を聞いたのだけれど、藤原くんは逆にわたしに問いかけた。


「なつは、鎌倉で行ったとこどこ? せっかくなんだから行ったことない場所が、いいよな」


「わたし、鎌倉って初めてで」


 藤原くんは驚いたように、大きな目をさらに見開いた。


「そっか、初めてか」


 ぽりぽりと頭をかいてうつむくと、しばらくして顔をあげる。


「じゃあ、長谷の高徳院は? 大仏で有名なところ。お寺だけど、けっこう楽しいよ」


 大仏と聞いて、すぐに青空の下の大きな仏像の映像が浮かんだ。わたしでも知っているメジャーな観光スポットだ。


 藤原くんはたぶん、行った場所なんだろうけれど、どこも知らないわたしに合わせてくれている。その気づかいをわたしの気まずさだけで、無下にはできないような気がする。


 わたしは、こくんとうなずいた。




 翌日は朝から海風もなく蒸し暑い日だった。十時に家を出る前、お留守番をすると言った唯ちゃんにわたしはたずねていた。


「本当に、お留守番するの? やっぱり、唯ちゃんもいっしょに行こうよ。楽しいよ」


 正直に言うと、藤原くんとふたりだけで出かけるのがすこしだけ億劫だった。いったい唯ちゃんを抜きにしてどんな話をすればいいか、皆目わからない。デートが楽しみだったわけではないけれど、緊張で昨晩眠れず今日は寝不足ということもあり、唯ちゃんがいてくれると間が持つ、というとても後ろ向きな理由で唯ちゃんを誘っていた。


「えー、デートの邪魔とかしたくないし。それに、大仏なんてつまんない」


 幼稚園児だけど、女子高生のような事を言われて断られた。わたしは唯ちゃんにつきはなされ、しょんぼりした気持ちで別荘から歩いて十分の高徳院へ向かった。


 たどり着くまでに、今日来ているリネンのワンピースの背中は汗でびっしょりになっていた。


 たった十分歩いただけなのに。麻だからすぐ乾くだろうけれど、なんだか恥ずかしい。まわりを見ても、こんなに大汗をかいている女の子なんていない。


 藤原くんの高そうなプリントTシャツの背中は、全然濡れていなかった。


「息あがってるけど、大丈夫か」


 タオルハンカチで汗をふくわたしへ、藤原くんはたずねてくれた。


「今日は暑いから、汗がすごく出る」


 背中にかいた汗の言い訳をしつつ、彼の気づかいがすこしだけうれしい。


「ああ、こんな風のない日に谷戸やとの奥はむしむしするからな」


「ヤト?」


 聞きなれない言葉だった。


「鎌倉は三方を山でかこまれてるだろ。低い山が複雑な地形をつくってて、たにもひだのように入り組んでる。こういう鎌倉特有の谷を谷戸って言うんだ」

「そうなんだ、初めて聞いた」


 純粋に為になることを聞いたと相槌をうつわたしへ、藤原くんは柔らかな目線を落としてくる。


 そのやさしい眼差しに、また額に汗がにじんできた。ハンカチで汗をぬぐいつつ、仁王門をぬけ手水舎で手と口を清めて奥へ進んでいく。



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