第2話 ホットミルク
その日の夜になっても、懐中時計を返してくれと藤原くんは言ってこなかった。事件の日は確実に近づいてきているけれど、自分がどのような行動をとるべきかわからない。
この懐中時計を自分から返すべきなのか一日中悩んでいたら、藤原くんとふたりきりになることを自然とさけていた。
わたしは夕食の後片付けをおえ、唯ちゃんを寝かせるとテラスの籐椅子にすわり虫の声を聞いていた。お盆も近くなると、昼間の蝉時雨が夜になると虫の声に取ってかわる。朝も早朝は肌寒いくらい涼しい。朝と夜には一足早く秋が訪れているようだった。
テラスに風がふいに吹き抜けていき、洗いざらしの髪をゆらした。
「あんまり夜気にあたっていると、湯冷めするわよ」
驚いて振り向くと、穂香さんがそこに立っていた。
「すいません。ちょっと涼んでただけなんで。中に入ります」
そう言って、中に入りリビングを出て行こうとすると呼び止められた。
「ちょっと待って、ホットミルクつくるから」
わたしがいるともいらないとも答える前に、穂香さんはキッチンへ消えていく。しょうがないのでリビングのソファに座ってまっていると、お盆にのせたマグカップを穂香さんが運んできた。
「さっ、冷えた体があったまってよく眠れるわ」
渡されたカップを素直に受け取り、カップの淵に口をつけた。鼻先にほんのり甘いミルクの匂いがして、口に含むと人肌に温められたミルクが舌の上をすべっていき口中に懐かしい味が広がった。
「おいしい」
息をつき、ぽつりとこぼしたわたしの声はとても明るい。
「そう、よかった。なっちゃん今日いちにち元気がなかったから」
穂香さんはわたしをいたわって優しい声をかけてくれているのに、ぎゅっと心臓をつかまれたように痛む。
「べ、別に変らないと思いますけど」
くるしい言い訳に、穂香さんはふふっと笑いをこぼした。
「あきくんと、ケンカしたんでしょ」
わたしが落ち込んでいる理由を穂香さんは勘違いしている。でも、その勘違いがありがたかった。
「えっと、ちょっと意見の食い違いというか。こんなに長くいっしょにいることなかったので、いろいろ――」
わたしは言葉を濁し、できるだけあいまいにどうとでも取れるように答えた。
「そうね、どんなに仲が良くてもどんなにいっしょにいても、相手のことを百パーセント理解するなんて無理よね」
「それって、結婚してても相手のことがわからないってことですか」
穂香さんと父。父と母のことを頭に浮かべてたずねていた。
「わたし、こう見えて女優をやってて恋多き女だったの」
肩をすくめて話す穂香さんを、かわいいと思ってしまった。同時に、母に悪いという罪悪感もわいてくる。
「東吾さんとは、いろいろあってようやく結婚できたの。わたしたちは、いっぱいいろんな人を傷つけた。傷つけたんだから、絶対幸せにならないといけないのに。時々東吾さんがわからなくなる」
わたしはハッとして、穂香さんの横顔を盗み見る。そのうつむいたさみし気な顔を見たことがあった。
小学生の時、母に父のどこが好きなのかと無邪気にたずねた時があった。
母は、家でだらけて油断しているところだとか、魚の目が怖いところだとか言ったのだけれど、およそわたしの好きの範疇では理解できないことばかりだった。
じゃあ、お父さんのこと全部好きなんだ。と言って強引にまとめようとしたら、ふっと今の穂香さんと同じさみし気な顔をして母は言った。
『大好きなら、お父さんのこと全部わかればいいんだけど』
穂香さんは、母と同じことを言ったのだろうか?
「人間は完全に理解し合うなんて、無理なんじゃないですか」
わたしはどう答えていいかわからないのをごまかすように、わかったような口をきいた。
「そうね、無理なのよ。わかっている。でも、わからないことに不安になることもあるのよ。男女の仲にはね」
わたしの浅い人生経験なんて、穂香さんや母にかなうわけがない。わかったふりをしたことが、急に恥ずかしくなりマグカップに視線を落とした。
「なっちゃんは、これからの人だから。いっぱい恋してね。あきくん以外の人でもいいから」
「えっ?」
わたしと藤原くんは恋人設定なのに、これって別れろって言われたんだろうか。
「えっと、ふじ……あきくんのことは好きですよ。だから別れたくはないです」
恋人設定を持続したくて、わたしは言いつくろったのだけれど。穂香さんは一枚上手だった。
「恋人のフリしなくてもいいわよ」
穂香さんの薄く笑う顔をまじまじと見る。
「言ったでしょ。私は恋多き女だったって。あなたたちが、恋人同士じゃないって見てたらわかるわよ」
どうしよう。正直に認めた方がいいのだろうか。でも認めたら、どうしてそんな嘘をついたのかとたずねられたら……。
「安心して、あなたたちの事情まで訊かないから。でも、本当の恋人同士になるのは近いかもよ」
茶目っ気たっぷりに言われたセリフに首をかしげた。
「あきくんは、あなたのこと好きよ。とってもね」
わたしは驚き、マグカップを膝にのせ右手を激しく振って否定した。
「そんな、ありえませんよ。わたしと藤原くんじゃあ全然釣り合わないから」
釣り合わないどころか、藤原くんがわたしのことを好きになる要素がひとつもみつけられない。むしろ、彼に嫌われるようなことばかりしている自覚はあった。
「藤原くんは、とってももてるから、わたしなんか眼中にないです」
「そんなさみしいこと言わないで。なっちゃんはとっても魅力的よ。現にあきくんはこっそりあなたのこと見てるんだから。とっても愛しい目をしてね」
……愛しい目。愛しい目ってどんなのだろう。藤原くんの眠たそうな目しか頭にうかばず、混乱する。
「なっちゃんが、あきくんのこと好きになってくれたら、私はうれしいな」
穂香さんは、どうしてそんなことを言うのだろう。わからない。わからないけれど、胸の鼓動が早いリズムを刻みだしたので落ち着こうとホットミルクを一気に飲み干した。
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