第三章 夏木立
第1話 嘘
母の名前が刻まれた懐中時計が、この別荘に落ちていた。カラスがどこからか運んできたにしては、因縁めいている。だって、母の懐中時計のネジを巻いたら過去にタイムスリップしたんだから。
わたしは懐中時計を手に茫然とオレンジ色のランプの灯りを見つめ、鎌倉で事件が起こった時のことを思い出していた。
事件から二日間わたしも母もどこにも行かず、じっと家にこもっていた。そうしたらインターホンが鳴った。またマスコミだろうと無視していたら、それは警察だった。
出ないわけにはいかず、母が室内に招き入れた。わたしは自室にこもり、リビングから聞こえてくる母と警察の話声に聞き耳を立てていた。
しばらくして母に呼ばれてリビングに行くと、いかつい顔をした若い刑事と、柔和な笑顔をはりつかせた年配の刑事がわたしに話を聞きたいと言った。
事件があった日の行動を朝から聞かれた。母は「子供には関係ないでしょ」と憤りをみせたが、やんわり刑事にかわされわたしは詰問された。
朝から学校へ行き、夕方までずっと部活をしていた。帰宅してひとりで夕食を食べ、お風呂に入って十一時にベッドに入った。しばらくしたら、玄関のドアがあく音がして、母が帰ってきたのがわかったと嘘をついた。
刑事は、「それは何時?」と聞いたけれど、時計を見ていないからわからないと言って、なんとか切り抜けた。本当は、母が帰ってきた音なんて聞いていないのに。
わたしは中学生の浅はかな知恵を総動員して、母にアリバイがないのではないかと思った。誰かが証言すれば、疑いははれる。そう考えて嘘をついた。
今考えると、母の帰宅時間がわたしの証言と食い違っていたら余計疑われた。とんでもない危険な綱渡りをしたことになる。
でも母の話とつじつまがあったようで、それ以上、刑事は詰問せずにあっさり帰って行った。
母は本当にあの夜、家に帰っていたのだろうか……。もし、帰ってきたのが明け方だったら、鎌倉のこの別荘で事件を起こして東京まで帰ってこられる……。
そう考えた途端、全身に氷水をかけられたように寒気が走った。ブルブルと震えがとまらず、思わず自分で自分の腕を抱きしめた。
こんな恐ろしいことを、考えたらダメだ。絶対、違う。わたしが母を信じなくてどうするというのだ。
しばらくして二階の和室に藤原くんは帰ってきた。押し黙ったままのわたしに特別違和感を覚えなかったのか、「おやすみ」と一言口にして布団に入った。
わたしも布団に入ったけれど、答えの出ない問いを一晩中繰り返し考えていた。闇に沈む室内に唯ちゃんと藤原くんの寝息だけが、手で触れられないけれど確実で明快なものだった。
わたしはほんの短時間まどろみ、翌朝薄くて軽い肌布団の中で目を覚ました。手の中に何かかたいものを感じてはっと思い出す。
懐中時計をずっと握っていたのだ。昨晩からずっとわたしが持っているということは、寝る前にネジを巻いていない。
藤原くんは時計が止まらないよう寝る前に必ず巻いていた。あわてて横になったままネジを巻いたので時計は止まることはなかった。けれどもし、ネジを巻かなければこの魔法のような世界は消えてなくなるのだろうか。
緩慢な動きで起き上がり、止まることなく時を刻み続ける時計の針を見ていると、ふっとご都合主義な考えがじわじわと頭の中に広がっていく。
時計がとまり魔法がとければ、何もかも元通り……いや、事件の起こらない、母も亡くなっていない世界になればいいのに。
「なつ、おはよう」
ふいに声をかけられ、ギクリと体が硬直する。出窓の方を見ると、藤原くんは朝日を背中に受けわたしを見ていた。
「おはよう」とかすれた声で答えて、手の中の懐中時計をどうしようかと一瞬ためらう。昨日返さなかったことをあやまり、藤原くんに戻すのが自然だけれど。もし、藤原くんがこの裏蓋をあけて母の名前を見つけてしまったら。
事件の犯人は母ではないかと、疑わないだろうか。はたからみれば、母には十分ふたりに対する恨みがある。
「あのね、昨日懐中時計返すの忘れてたんだけど、もうちょっと、きれいにしたいから預かっててもいい?」
よくもこれだけつらつらと嘘が口から出るなと、自分でも感心する。そういえば、母によく言われていた。「夏帆は嘘がへた。すぐ目がキョロキョロするんだから」と。
わたしは、藤原くんの琥珀色の瞳に視点をさだめ決して外さなかった。こんなことができるようになったよと、母に教えたくなったが、きっと母は「バカなこと言って」と苦笑いするだろう。
「ああ、いいよ。なつの好きにしたらいい」
藤原くんは、疑うことなくわたしの言葉を信じてくれた。後ろめたさから、ことさら明るい声を出す。
「着替えてくるね。ちょっと散歩してくるから、唯ちゃんお願いね」
まだ眠りについている唯ちゃんに視線を向け、逃げるように懐中時計を持ったまま納戸へ向かった。
Tシャツとワイドパンツに着替え、そっと螺旋階段を降りていく。今日はポタージュの濃厚な匂いが漂っていた。わたしはリビングのドアをあけ、キッチンにいる穂香さんに挨拶をするとそのままテラスから外へ出た。
藤原くんと顔を合わせたくないという逃避の散歩は、自然とブランコへ向かった。板に腰を下ろした瞬間大きなため息が出た。そのため息は人生に疲れた大人のため息に聞こえ、この別荘にやってきてあまりにもいろんなことがおこり、一気に老けたような気がした。
大人になるとは、ため息をつく回数が増えるということなのだろうか。二十歳の自分は大人だと思っていた。前に前に進み成長していると。それなのに、ため息をひとつつくたび、成長ではなく後退しているような気さえする。
足にグッと力を入れて、地面を踏みしめブランコに乗る体を前方へ押し出す。しかし、地面から足をはなせば、前に進んだ体はあっという間に後ろに引っ張られていく。また地面に足をつけ、胸をそらし前へけり出す。さっきよりは大きく前へ揺れたけどあっという間にブランコは後ろに下がっていく。
もっと前へいきたい。過去にとらわれず、人に嘘をつかなくてもいいぐらい強くなりたい。膝をおり一気に足をまっすぐにのばす。どんどん、ブランコの揺れは前後に大きくなっていく。
わたしは夢中で、ブランコをこいでいた。ただ、もっと遠く高くという思いを胸に抱いて。大きく体を前後にふられ、その浮遊感に酔ったようにどんどん楽しくなってきた。
そのまま前だけを向いていればよかったのに、ふと二階の窓を見あげたら窓辺に立つ藤原くんの姿が目に飛び込んできた。
わたしを見張ってるの?
とたんにブランコをこぐ足はピタリととまり、みるみる揺れが小さくなっていきやがてブランコはとまった。ポケットに入れた懐中時計がずしりと重く感じたのだった。
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