第7話 刻印

 黙り込んだ藤原くんに、わたしは明るい声で話しかける。


「懐中時計、見せて。とにかく、事件が起こらなかったら、わたしもひとりぼっちにならないかもしれないんだから」


 藤原くんは同意してくれると思ったら、予想に反して眉根に深いしわを刻む。そのしわの原因を教えてくれるわけでもなく、黙って和室に置かれた水屋箪笥の引き出しから懐中時計を取り出した。


 手渡された懐中時計はずしりと重く、だいぶ汚れでくすんでいた。ゴールドの文字盤はシンプルなローマ数字で、ケースの裏蓋にはアルファベットの『S』の文字が草花で装飾されて刻まれていた。


「何か、柔らかい布がないかな。ふいたらきれいになりそう」


 出窓に懐中時計をおこうとして振り返ると、外の庭の景色が目に入った。穂香さんが庭に出て歩いていたのだ。ゆっくりゆっくりと、白いワンピースが闇の中浮き上がって見えた。


「こんな時間に珍しい。さっき、ワイン飲んでたのに」


 酔いを醒ますために散歩をしているのかと思い、じっと見ていると樫の木の下までいきブランコに乗って揺れ始めた。揺れるたび、穂香さんの長い髪と白いワンピースがはためいた。


 西洋画のモチーフにでもなりそうな、絵になる光景だった。

 わたしは結局、穂香さんのことを憎み切れないのかもしれない。穂香さんが嫌な人だったら、心置きなく憎めたのに。その方が楽だったかもしれない。


「懐中時計ふくの、これでどう?」


 藤原くんが差し出した布を、受け取ろうと出窓に背中を向ける。


「うん、ありがとう。ふいてみるね」


 わたしは出窓に置かれたランプに懐中時計を近づけて、布で汚れをおとしていく。文字盤を覆うガラスは曇っていただけで傷は入っていなかった。裏蓋も丁寧に磨き上げていく。ネジの部分にたまったほこりは、布ではとれなかった。何か細いものがあれば……たとえば爪楊枝とか。


 キッチンにいこうと、懐中時計から顔をあげるとわたしの隣に座っていた藤原くんは外へ視線を向けていた。


 わたしが階下におりるため立ちあがろうとした瞬間、藤原くんの口から「あっ!」という驚きの声がもれた。


「どうしたの」と彼の視線の先を追って出窓の外を見ると、先ほど穂香さんが乗っていたブランコが誰も乗せずに暗闇のなか揺れていた。


 穂香さんは、室内に入ったのだろう。藤原くんが何に驚いたのかはわからないけれど、わたしはそれ以上問いたださず階下へおりて行った。


 一階はすでに真っ暗で、リビングにいた父の姿も穂香さんの姿もなかった。ふたりとも寝室へ入ったのだろう。わたしは物音を立てないようにそっとキッチンに入り、爪楊枝を数本持って二階へ戻った。


 藤原くんはまだ外を見ていた。ランプに照らされた横顔は憂いをおび、どこか物悲しい表情にも見えた。わたしの気配に気づくとぱっと、視線を外からうつしわたしと目が合う。


「下に、誰かいた?」


 わたしは首を横にふりながら座った。


「今この別荘で起きてるのは、わたしと藤原くんだけみたい。すごく静かだね」


 わたしの問いかけに藤原くんは何も答えず、じっとわたしの瞳をみている。その顔に悲壮感が漂っていた。ランプの灯りで顔色はわからないけれど、きっと青ざめている。そんな思いつめた顔をしていた。


「大丈夫?」


 わたしは、思わずそう聞いていた。数日前に、藤原くんに同じ台詞を言われ、いら立っていたのに。


「あの、なつ……もしかして――」


 ここまで言うと、藤原くんはその先の台詞をなかなか口にしない。どうしたんだろうと、首をかしげると、わたしからふっと視線をはずし、首をふった。


「なんでもない。あのさ、やっぱりここから帰ったらうちに遊びに来てよ」


「なんで? 唯ちゃんとは、幼稚園で遊べるけど」


「えっと、ちがうだろ。幼稚園とうちで遊ぶのじゃ。絶対唯も喜ぶし」


「そうだね、遊びに行くくらいなら――」


 ここまで言って、ずっと疑問に思っていたことを藤原くんに聞いてみようと思った。


「あの、なんでわたしのことシッターとして雇ったの? 普通、やめるでしょ。事情が事情だけに」


 唯ちゃんが存在を知らない、異母姉を雇うなんてやはりどうしても理解できなかった。おまけに、戸籍を変えてまで宗平から切り離したかったのに。わたしがもし、姉だと名乗り出るとは思わなかったのだろうか。


 藤原くんが迷いを振り切るようにしっとりと濡れた前髪をかきあげたら、ふわりとシャンプーの甘い香りがわたしの鼻をくすぐった。


「本当は、シッターを頼むのやめようとした。でも――」


 藤原くんはそこで言いよどみ、目をふせた。ふせられた長く濃いまつげが、湿気のせいか湿っている。


「幼稚園のお迎えにいったあの日、なつがすごく楽しそうに唯と遊んでるのを見たんだ。唯を見る瞳がやさしくて、この人は唯が妹だとわかってるんだろうなって」


 わたしは唯ちゃんと幼稚園で初めて会った時は、妹だって知らなかった。でも、同じアルバイトの子が内緒話をしているのが耳に入ってきた。


『唯ちゃんって、あの藤原くんの妹なんだって』


『えー、だったらあの柏木穂香の娘ってこと? やだーお母さんが殺されたとか、超かわいそうじゃん』


『絶対、言ったらダメだからね。唯ちゃん知らないみたいだから』


 柏木穂香と父が正式に結婚してから、娘が生まれたことは知っていた。知っていたけれど、会ったこともない妹なんて意識の外に追い出していた。


 母が亡くなり、親戚もほとんどいないわたしは天涯孤独だと思っていたら、ふいに妹の唯ちゃんが目の前に現れた。


「わたし勝手なの。今まで忘れてたくせに、唯ちゃんが現れてひとりじゃないってうれしくなった」


「俺ならうれしいなんて思わないよ。自分の母親を苦しめた女の娘なんて、近づきたくもない。それなのに、なつの唯を見る顔がすごくやさしくて、愛おしそうで。この人は俺みたいにひねくれてなくて、まっすぐで強い人なんだって」


「ちがうよ。わたしはまっすぐでも、強いわけでもない」


 わたしが否定しているのに、藤原くんはふるふると首をふる。


「なつは俺と違って、逃げなかった」


 ……逃げる? 藤原くんは何を言っているんだろう。何から逃げたというのだろう。


 知りたい。藤原くんが何を考えているのか、いま無心に知りたいと思った。しかし、彼の横顔はわたしの疑問を拒絶するように夜の庭を一心に見ていた。そして、ふっと息をつくと、


「ちょっと喉かわいたから、水のんでくる」


 そう言って、部屋から出て行った。

 彼の出て行ったガラス戸をみつめ、無意識に手を握りしめると持っているのを忘れていた爪楊枝がチクリと手のひらをさした。


 そうだわたし、懐中時計をきれいにしようとしてたんだ。


 出窓に置きっぱなしにしていた懐中時計を手に持ち、ランプの光にあてる。鈍く光るゴールドの裏蓋と、文字盤の隙間に汚れがたまっていた。これが、本当にカラスの巣にあったのならよく壊れなかったものだ。


 隙間の汚れをとろうと爪楊枝の先に布をあてて、グッと差し込むとパカリと裏蓋が開いた。予期せぬことに、思わず懐中時計を取り落としてしまった。


 あわてて拾い上げ壊れてないかと懐中時計に耳を近づけると、変わらず時を刻む音を立てていた。ほっとして裏蓋をしめようとすると、開いた蓋の裏側に何か刻まれていることに気がついた。ランプに近づけて見ると、それは文字だった。


『SANAE.MUNEHIRA』


宗平早苗。母の名前だ。


 別荘の外に落ちていたこの懐中時計は、母のものなの? どうしてこんなものが、ここに? 母は、この別荘に来たことはないはず。


 事件のあと、母の元に警察がやってきて別荘に行ったかと聞いてきた。母はきっぱりとないと言っていたではないか。


 それとも、母は警察に嘘を言っていたのだろうか……。



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