第7話 侵入者
どれぐらい眠っていたかわからないけれど、階下から聞こえる唯ちゃんの鳴き声で目が覚めた。何事かと降りて行くと、リビングでは穂香さんの足にしがみついて唯ちゃんが泣いていた。
宗平さんはしゃがみ込み、唯ちゃんの頭をなでている。その三人の姿は親子そのもので、ずきりと私の心臓に痛みが走る。
事件さえ起こらなければ、この泣いている子供をあやすありふれた行為は、日常の風景となっていたことだろう。
でも、そんな日常は六年後には実現しないのだ。この夫婦はあと十日後には死んでしまう……。でも、わたしには何もできない。
胸がつまり目をそらせると、唯ちゃんが大事にしているアンティークドールを手に持った藤原くんと目が合った。
藤原くんの澄んだ大きな瞳がわたしをとらえていた。その琥珀色の瞳から目がはなせない。しかし、このまま見続けているとわたしの中のすべてをさらけ出しそうで、怖くなり口をひらいた。
「どうしたの、何があったの」
琥珀色の瞳は、ふっと一瞬左右にゆらぎすぐに下を向いた。
「唯の大事にしてた人形が、なくなってるのに気がついて――」
そういえば、唯ちゃんは毎日人形を横において絵本の読み聞かせを聞いていた。今日人形はソファに座ってはいなかった。
「慌てて探したら、庭の樫の木に引っかかってたんだ。誰かが、人形を放り投げて枝に引っかけたみたいだ。そうしたら――」
藤原くんが先ほど起こった状況を説明していると、泣いていた唯ちゃんが割って入る。
「朝にお砂場で、ほのちゃんと遊んでたの。そしたらそのまま、ほのちゃんのことおいてきぼりにしちゃった」
ここまで言うと、唯ちゃんはしゃくりあげた。ほのちゃんとは、唯ちゃんがつけたお人形の名前だ。穂香さんにちなんでいるのだろう。
「ほのちゃんのお洋服やぶけちゃった!」
「俺が、梯子をつかって人形を取ったんだけど、洋服が枝に引っかかっていてやぶれてたんだ」
藤原くんの手の中の人形を見ると、たしかにピンクのドレスのスカート部分がやぶけていた。
「泣かないで、ゆいちゃん。これぐらい縫えばなおるから。大丈夫よ」
穂香さんが、唯ちゃんの頬に伝う涙をぬぐっている。
「ごめんなさい、せっかくおばさんに貸してもらったのに。大事にできなかった。ごめんなさい」
「ゆいちゃんはやさしいね。いい子だね。でもゆいちゃんが悪いんじゃないよ。お人形にひどいことした人が悪いんだよ」
宗平さんは大きな手で、唯ちゃんの小さな顔を包み込んでやさしく言い聞かせる。
「本当ね、いったい誰がこんなことを……。まさか、この屋敷に誰か入ってきたのかしら」
穂香さんの顔色がみるみる青ざめていく。すかさず、藤原くんが口をはさんだ。
「このお屋敷、セキュリティが入ってないですよね。俺、庭を散歩しながら隣家との塀を見たんですけど、塀が低いし侵入しようとすればいくらでも入ってこられますよ」
宗平さんの、落ち着いた声が低く響く。
「ここは、古いからね。そう高価なものもおいていない。今まで泥棒が入ったという話を聞いたことあるかい、穂香」
穂香さんは力なく首を横にふった。
「今回は誰かが侵入していたずらしていったみたいなので、おふたりも気をつけてください。夜間の泥棒と鉢合わせしやすい一階に寝室があるので」
「ああ、そうするよ」
人形にいたずらした犯人は、侵入者ということで落ち着いた。
わたしは、泣き続ける唯ちゃんを穂香さんの腕の中から連れ出すと、二階へ行きお布団を敷いてお昼寝をさせた。トントンと背中をたたいてあげると、泣き疲れたのか唯ちゃんはすぐに眠りについた。
スースーと規則正しい寝息になると、藤原くんが開いていたガラス戸から部屋に入ってきた。
「唯ちゃんは、ご両親の顔を知らないの?」
わたしは、唯ちゃんの頬にかかる髪を払いのけながら藤原くんにたずねる。
「姉貴は宗平さんと付き合ってた頃から、親父に勘当されてそのまま反対されても結婚したんだ。それに、この事件があって家にふたりの写真はまったくなくて、唯にも見せたことない」
「でも、勘当されてたのに、藤原家のこの別荘に滞在してたの?」
「さすがの親父も唯が生まれて態度が軟化したんだよ。それに、姉貴は唯を産んでから体調を崩して。事件のあった夏は唯をベビーシッターに頼んで、ここで静養していて事件にあった」
「そうなんだ、唯ちゃんは穂香さんたちと離れてたから助かったんだね、でも、かわいそうだね」
わたしが子供のころ、散々大人たちに言われてきた『かわいそう』と言う言葉が自然と口をついた。
――お父さんがいなくて、かわいそうね。
――お母さんだけなんて、かわいそう。
――どうして、あなたの両親は離婚しちゃったの?
無遠慮にはなたれた、好奇のセリフ。両親が離婚した小学四年生から、耳にタコができるほど聞いてきたセリフ。 お父さんなんて、離婚する前から、いてもいなくてもいっしょだった。それほど、父の存在は希薄だった。
お父さんがいないなんて、かわいそう。そんな他人の思い込みをわたしに押し付けないで。あの頃のわたしは、『かわいそう』という同情の言葉が大嫌いだった。
それなのに今、唯ちゃんに同じ言葉を浴びせた。
ほんの数年前の感情を人間はどんどん忘れていき、都合のいい感情だけが残っていく。
それが、大人になるってこと? 年をとるってこと?
忘れられたモノは、どこへ行くのだろう。
唯ちゃんの寝顔を見ながら黙り込むわたしへ、声がかかる。
「大丈夫か?」
『何が?』と問う前に、藤原くんは部屋の奥へ進み出窓に腰かけわたしを見おろす。
「今回のことで、あのふたりが警戒心を持ってくれたことは助かった」
「じゃあ、侵入者が犯人ってこと?」
出窓の外の空がまぶしく、藤原くんを見ずに疑問をぶつける。
「……違う……いや、わからない。わからないけど、絶対ふたりを助けたい」
藤原くんの切実な声に、わたしはうなずいた。
「事件の当時の状況はまとまったなら、聞かせてくれる?」
「午前中で、だいたいまとまった。と言うか俺が知っている事実は少ないんだ」
藤原くんは、当時中学二年生で警察から直接事件のことを聞いたことはない。父親や、テレビや週刊誌からわかったことだと念押しして、話し始めた。
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