第5話 別荘の生活

 穂香さんが一階に降りていくと、藤原くんはようやく唯ちゃんの口から手をはなした。唯ちゃんは、思いっきり藤原くんの足を踏んずけて癇癪をおこす。


「もう、あきちゃん何すんの! 唯苦しかった。それになんでみんな違う名前言うの?」


 姪っ子の暴力にあらがわずに顔をしかめただけで、藤原くんは小さな顔をのぞき込む。


「あのな、本当の名前言うの恥ずかしいだろ。なんせ俺たち間違ってここに来たんだから。わかるよな、唯」


 藤原くんの苦しい言い訳に、唯ちゃんは口をとんがらせた。


「変なの。まっ、いいか。なっちゃんとあきちゃんは変わらないし。唯はお庭で遊んでくるね」


 そう言って階下へさっさと降りて行った。軽やかな唯ちゃんの足音と螺旋階段の軋む音が重なり、再びふたりだけになった空間に重く響く。


「お姉さん、藤原くんに気づかないんだね。六年前っていったら中二でしょ。面影は変わってないと思うけど――」


 ここまで言って、ハッとして口をつぐんだ。穂香さんを非難しているように聞こえたと思ったのだ。


「姉貴とは、宗平さんと付き合いだした頃からほとんど会わなかった。それに俺、中二のころ金髪だったしな。今の俺を見たって、弟だって気づかないよ」


「そう、なんだ――」


 ダークな髪色の好青年にしか見えない今の藤原くんを見て、わたしの相槌はかすれて消えていった。彼が荒れていた中学時代をすごそうが、わたしにはなんの関係もないこと。これ以上、彼のことを知りたくない。


「さっきの『時の螺旋』って何?」


 違う話題をふって、場の空気を変えようと思ったのに、藤原くんはさも驚いたと言わんばかりに目をむいてわたしを見た。


「清水さん、あれ読んでないの? 宗平さんが菊池賞とった代表作。俺、あの小説好きで何回も読んだんだ。章文ってその主人公の名前。とっさに思いついたんだけど」


 読んでいて当然という言い方をする藤原くんに、無性に腹がたった。


「そんな本、知らない」


 と言い捨てると、わたしは唯ちゃんを追って螺旋階段を駆け下りて行った。


 それからこの奇妙な五人の生活が始まったのだけれど、案外快適な生活を送っていた。藤原くんと恋人設定なので、唯ちゃんを入れて三人で二階の海の見える畳の部屋で寝起きすることになったのは最悪だったけれど。


 穂香さんに、「三人、同じ部屋がいいでしょ?」と聞かれた時、唯ちゃんが大喜びしたのでわたしは断れなかった。藤原くんが断ってくれるかと思っても何食わぬ顔をしていた。こんな状況に陥ったとはいえ、今までろくに話をしたことがないのだから、やんわり断ってくれてもいいのに。


 当初の予定では、藤原くんは別荘に滞在しないと聞いていたのに、ちゃっかり唯ちゃんのキャリーケースの中に自分の着替えを用意していた。最初から、三人で滞在するつもりだったのだろうか。わたしが警戒するから、自分はすぐに帰ると言っただけで。


 藤原くんが何を考えているのか、さっぱりわからない。できれば、これ以上近づきたくないけれど、恋人設定なのであからさまに距離をとると穂香さんたちに不審がられる。


 藤原くんに寝顔を見られたくないので、毎朝わたしは一番に目をさます。すると、わたしの頭の隣には唯ちゃんの小さな手があったり、足があったり。寝相がとても悪い。


 子供ってみんなそういうものなのだろうか。

 唯ちゃんの寝顔を見ながら、母によく言われたことをなつかしい声音とともに思い出す。


『夏帆は、いっつも寝ながらダンスを踊ってるね』


 毎朝、藤原くんが起きる前に和室の隣の納戸で着替えをすませ、螺旋階段を途中まで降りるといい匂いがしてくる。その匂いは日替わりで、コンソメの香りだったり、トマトの酸味のきいた匂いだったり。


 穂香さんがつくるスープは、私の食欲を刺激するいい匂いだった。

 料理は朝昼晩の三食すべて穂香さんがつくってくれる。唯ちゃんと約束をしたハンバーグやオムライスをわたしが作ろうとしても、『まかせて、大勢の食事をつくるのは久しぶりで、楽しいの』と言われては手が出せなかった。


 おまけに穂香さんのつくる料理は、わたしがつくるよりおいしいのだから、まかせるしかない。


 朝食は、宗平さんをのぞいた四人でとる。宗平さんは夜遅くまで書斎にこもって原稿を書いているので、朝が遅く昼食時にようやく出てくる。


 リビングの隣にあるダイニングで、大きなマホガニーのダイニングテーブルにそろって五人が座る。会話の中心は唯ちゃんで、幼稚園での友達の恋バナや別荘でみつけた虫のはなしまでバラエティーにとんだ話を披露した。


 宗平夫婦はニコニコとして、その他愛ないおしゃべりに時おり質問したり相槌を打って聞いている。


 なんとも和んだ雰囲気が流れるのだが、わたしはそのような食卓を囲んだことがなく戸惑うと共に、唯ちゃんをうらやましく思うのだった。


 その後宗平さんはコーヒーをのんで新聞を読んだりしてからまた書斎に入り、夜までほとんど出てこない。


 たまに、存在を忘れるぐらいだ。

 食事の後片付けは、わたしの仕事になった。食器を洗い、リネンのふきんで丁寧にふいて食器棚へ片付ける。作り付けの食器棚は、この別荘ができた当初から使われている古いもので、天井まで高さがあり梯子がついている。


 朝食の片付けが終わると、今度は洗濯をする。洗濯機はドラム式で乾燥までできるけれど、お日さまの下に干した方が気持ちいいと思い、芝生の上に張られたロープに洗濯物を干していく。


 午前中は日差しもそこまできつくなく、唯ちゃんも庭に出てテラスか芝生で遊んでいる。この洋館は北側の玄関が山に面し、南側に海をのぞむテラスが配置されている。


 すぐそばに山がせまっているから、由比ヶ浜駅で降りた時の熱気が嘘のようだ。洗濯物と二階の和室の掃除を終えると、わたしも唯ちゃんといっしょに遊ぶ。唯ちゃんは大きな樫の木につるされた白いブランコがお気に入りで、飽きることなくこいでいる。


「唯の別荘にも、お庭に大きな木とブランコがあったんだ。ここのブランコとそっくりなの」


 それはよかったねと、言いながらわたしは唯ちゃんの小さな背中を力いっぱい押し出した。キャーと歓声をあげて、唯ちゃんは足を思い切りのばす。裸足のつま先はピンとまっすぐのびて、雲ひとつない青い空を突き刺す勢いでのぼっていった。


 わたしたちが庭で遊んでいる間、藤原くんはひたすら別荘の敷地内を徘徊していた。事件につながりそうなことがないかどうか、探しているそうだ。そういうことは、とっくに警察があの当時調べているんじゃないだろうか。


 藤原くんは、本気であのふたりの命を救うつもりのようだけれど、わたしは協力もせず唯ちゃんと遊んでいる。


 穂香さんはテラスの籐椅子に座り、本を読むかコットンの糸で赤ちゃんのベストを編んでいた。その穏やかな姿からは、かつて映画の主演を務めたほど活躍した女優さんだったとはとても思えない。


 しかし、穂香さんは病気療養中なのでお昼ご飯を食べ終わると、一階にある寝室でお昼寝をする。元気そうに見えても、やはり体調はよくないのだろう。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る