第4話 穂香さん
張り出した出窓に手をつき、白い木枠にはまった窓ガラスを手で押すと、ギギッときしんだ音をたてた。空いた隙間から風が入り込んできて、室内の蒸し暑い空気を一掃する。
二階の出窓から見える木立の向こうには、青い海が水平線に広がる。真昼の陽光をうけ粉々に砕けた鏡のように輝く海の上を、三角の帆のヨットが悠然と走っていた。この景色が六年前のものだなんて、信じられない。
わたしと藤原くんはさきほど玄関ホールから螺旋階段をのぼり、二階の和室に荷物を運び入れた。
洋館にそぐわない畳が敷かれた和室。この館の主人は時代の最先端を走る映画人だっただろうに、日本人の生活様式まで変えようとは思わなかったのだろう。
非日常的な別荘の中にある和室に幾分心はおちついたけれど、手にしたキャリーケースはずっしりと重く、これが夢ではないと教えてくれる。しかし、死んだはずの夫婦が生きているという現実に頭がおいつかず、出窓から見える湘南の海を茫然とながめていた。
「さっきは、彼女って言ってごめん。その方が都合いいと思って」
背後に立っていた藤原くんに唐突に謝られ、わたしはめんくらう。
「都合がいいって、何が?」
振り返ると、藤原くんの整った顔はくしゃりと困ったようにゆがむ。
「俺たち、タイムスリップしたみたいだ」
ドラマや小説の中だけで聞く言葉が、藤原くんの口から飛び出した。
「タイムスリップしたと思ったから、ここにしばらくいたらってあの人の言葉にのったの?」
六年前の日付を聞いて唖然としていたわたしたちを見て、宗平さんは別荘を借りた日付を間違えたと勘違いして、ここに滞在することを提案した。藤原くんのお姉さんも、にぎやかな方が楽しいからと強く滞在をすすめた。
わたしはすぐさま断ろうとしたのだけれど、口を開く前に藤原くんがさっさと了承してしまった。
「だって、家に帰れないだろう。家に帰ったら六年前の俺たちがいるわけで、どう説明するんだ。ここにいるには、清水さんを俺の彼女とした方が自然だと思ったんだ」
藤原くんの言い分に、六年前の自分が何をしていたか思いめぐらす。中学二年の夏休み、吹奏楽部の練習に毎日いっていた。たしかに、そんなわたしの前に二十歳の自分が現れたら、驚くな。驚くというよりも、信じてもらえない。そうしたら、家にもおいてもらえないわけでたちまち路頭に迷う。
藤原くんの判断は正しかったと思っても、この事態をすなおには受け入れられない。
「タイムスリップって言うけど、何か証拠あるの?」
死んだはずの人間が生きているのが何よりの証拠だけれど、わたしは藤原くんにくってかかる。
「リビングの壁紙とフローリングが六年前のものだった。あの事件のあと、全部張り替えたんだ。血が――」
藤原くんは青い顔で言葉を飲み込んだ。殺害された夫婦はナイフでさされ、室内は血の海だったそうだ。
「それに、スマホの日付が狂ってる」
わたしはあわてて、持ってきたリュックからスマホを出して画面を確認する。スマホは圏外で、日付と時刻は横棒しか映し出さない。あわてて日時の自動設定をこころみたが、何度しても画面に日付と時刻は表示されなかった。
「ここは本当に六年前の世界で、あの夫婦はこれからここで殺されるってこと?」
自分の口から出た言葉なのに、ぞっとして心臓がキュッと縮こまる。それは、藤原くんもいっしょだったのか、眉間に深いしわを刻みわたしをみつめる。
「俺思ったんだ。これって唯の両親を救うチャンスなんじゃないかって。そのために俺たちタイムスリップしたんじゃないかって」
「そんな、都合のいいこと――」
――あるわけがない。という言葉をのみこんだ。
「あのふたりを助けたら、元の時代にもどれるの?」
わたしは、あのふたりが殺されるとか助かるとかよりも一刻も早く、この別荘からたちさり、元の自分の家に帰りたかった。たとえ、迎えてくれる人がいないひとりぼっちの家であっても。
「たぶん、ここに飛ばされたのは、この懐中時計が関係するんじゃないかと思う。あのふたりの子供である唯がこの時計を動かしたことで、時空がゆがんだのかもしれない」
熱っぽく語る藤原くんの手の中には、キャリーケースを取りに行くとき外に出て再び拾った懐中時計があった。
懐中時計は、まだカチカチと音を立てて時を刻んでいる。
「じゃあ、その時計がとまったら元の時代に帰れるってこと?」
藤原くんは「たぶん……確証はないけど」とあいまいに言いながら、時計のねじをまわした。
「これが動いている限り、ここにいられるんじゃないかな。事件があったのは、ちょうど二週間後なんだ。それまで、つきあってよ」
ミスターキャンパさまスのすがりつく目に、動揺を隠せない。けして彼の容姿にぐらついているんじゃない。藤原くんによく似たあの女の人のことが、頭によぎったのだ。
あの人と二週間も生活を共にすることに、わたしは耐えられるだろうか。
……耐えられるわけがない、絶対。
とにかく、わたしだけでもここから出て、ホテルに泊まろう。そう口に出そうとした途端、螺旋階段をのぼってくるにぎやかな声がして、半分開いていた廊下に面したガラス戸の隙間から唯ちゃんがするりと中へ入ってきた。
後ろには、あの女の人がにこやかに立っていた。
「ここにはおじさんとおばさんだけがいるんだって。おもしろいんだよ。唯の別荘とそっくりなのにおいてるものがちょっとづつ違うの」
唯ちゃんはわたしに抱き着いて、別荘の中を探検して気づいたことを報告してくれた。
六年前に唯ちゃんは赤ちゃんで、事件当時この別荘にはいなかったと聞く。事件から二週間前の今日も、この別荘には赤ちゃんの唯ちゃんはいないのだろう。
過去の自分と会ってしまったら、この場にいるべきでない人間はどうなるんだろう。
SF小説なんてあまり読まないから、わたしには皆目見当がつかない。見当がつかないけれど、怖いことになりそうでわたしに抱き着く唯ちゃんの肩をぎゅっとつかんだ。
「そうそう、まだ自己紹介をしていなかったわね。夫の名前は
藤原くんのお姉さんが穂香という名前なのはとっくに知っていたけれど、わたしは初めて聞いたふうな顔をして口の端をあげた。わたしの作り笑いを見て穂香さんは、話を続ける。
「ゆいちゃんのお名前は聞いたけれど、あなたたちのお名前も聞いていい?」
「俺は、
偽名を名乗る叔父さんに、唯ちゃんはすかさず疑問を口にしかけたが、藤原くんが小さな口をすばやくふさいだ。
「まあ、あきふみって、第一章の章に文学の
うれしそうに質問する穂香さんにわたしは訳が分からなかったが、藤原くんはすらすらと答えた。
「はい、宗平さんの『時の螺旋』の主人公といっしょです」
「まあ、すごい偶然ね。夫に言ったら驚くわ。そちらのお嬢さんのお名前は?」
大きな目の華やかな顔がこちらを向いて、巻き髪をゆらしながら小首をかしげた。
「わ、わたしの名前は
偽名を名乗ると、横目で藤原くんがわたしをちらりと見た。一瞬漂う不協和音のようなずれた空気を、穂香さんの耳に心地よい声がやわらげる。
「そう。じゃあ、なっちゃんとあきくんと呼んでいいかしら」
わたしと藤原くんは無言で首を縦に落としたのだった。
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