第二章 朱夏
第1話 ブランコ
激しく振り続いた雨は、翌朝にはあがっていた。
わたしは早朝に起き出して着替えると、軽いめまいを感じながらぐぐるぐる回る螺旋階段を降りていく。まだ、穂香さんは起きていないようだ。テラスへ出る両開きのガラス戸の真鍮の取手に手をかける。その冷たさに、寝不足の頭が冴えた。
庭とテラスをつなぐ階段のモダンな細工の親柱は、この別荘が建てられた昭和初期のものだと、藤原くんが以前教えてくれた。
履物をはかず素足で庭に出ると、足裏に朝露に濡れる芝の葉先がつきささり、ぞわぞわと痛みが体を駆けのぼる。大きな樫の木の下までゆっくり歩いていくと、白いブランコにそっと腰をおろした。わたしの体重を受け、ギシッとブランコのロープがきしむ。
ブランコに最後に乗ったのは、中学生になった時だっただろうか。大好きだったけど、ただ体をゆすらす単純な遊びがつまらなくなったのは、覚えている。
ブランコは頼りなくゆらゆらと、わたしが身動きするたびに揺れる。子供の時のように思い切りブランコをこいだら、昨日起こったことを忘れられるだろうか。頭上では山が近いから、カラスがうるさいほど鳴いていた。
ブランコをこいで忘れられるなんて、そんなわたしは単純じゃない。もう、嫌なことから必死に目を背けていた子供ではない。
わたしの父である宗平東吾は、自分が原作を描いた映画の主演女優だった柏木穂香と不倫をした。その時わたしは小学四年生だった。
不倫が発覚するまで、たまにしか帰って来ない父は親戚のおじさんとかわらなかった。でも家にいる父は優しく、仕事の合間に遊んでくれたこともあった。
遊んでいても何か閃くとすぐにパソコンに向かい、わたしはおいてきぼりにされ、そのまま遊びが終わってしまうこともしばしばだった。
小説家とは大変な仕事で、お父さんはすごい人なんだと無邪気に信じていた。
『宗平さんのお父さん、女優と不倫をしてるって。うちのお母さんが言ってたよ』
ある日、親切なクラスメートが、いじわるな笑いをへばりつかせてわたしに教えてくれた。その日自宅のマンションに帰ると、マイクを持った知らないおじさんに声をかけられた。
『お嬢ちゃん、宗平さんの娘ちゃんだよね。お母さんいる?』
小学生は知らない人と口を聞いてはいけないって、いい大人なのに知らないのって、言ってやりたかった。けれど、なんせ口を聞いたらダメだから無視した。
家へ入ると、いつも夜に閉める分厚いカーテンはぴたりと閉められ、母はソファに黙って座っていた。泣くわけでも、怒っているわけでもなかった。
その姿を見て、わたしは心底安心して母に抱き着いたのを覚えている。
マンション前のうるさい人たちは減ったり増えたりしたけれど、わたしの生活は以前と何ら変わらなかった。父はあれから家に帰ってくることはなかったけれど、母さえいれば幸せだった。
それから一年もたって、また親切な友達に教えてもらいワイドショーを見た。
柏木穂香という女優が、十六も年上の作家と不倫を乗り越え電撃結婚と同時に引退したと、ネクタイをしめたおじさんが興奮気味にしゃべっていた。
私はドラマを見るような気持ちで、恐ろしくきれいな顔の女の人を見ていた。この人がお父さんの新しい奥さんなのかと。
離婚をして名前が宗平から清水に変わっただけで、母は依然と変わらなかった。
父と結婚していた時から、友達が経営するインテリアの会社を手伝っていて『好きなことを仕事にできて幸せ』、そう言って、忙しく働いていた。
宗平夫婦が、別荘で斬殺されるまでは……。
遠くから、チャイムの音がかすかに聞こえてきた。わたしはあわてて、ブランコから立ちあがる。毎朝、地元の商店のご主人が食材を届けてくれるのだ。
穂香さんがネットで注文した食材を受け取るのは、わたしの仕事だった。しつこく鳴るチャイムにせかされ、庭から直接玄関に向かう途中で、中年の男性と出くわした。
「あーよかった、留守かと思った」
商店のご主人は、額にかいた大粒の汗を手の甲でぬぐった。玄関で待ちきれず、庭に回ろうとしていたのだろう。ご主人は、せかせかとわたしに荷物を渡して帰りたいそぶりを見せた。
「ちょっと、待ってください。お金を取りにいきますから」
わたしは、あわてて庭から玄関へまわる。代金は玄関ホールのシューズケースの引き出しに、穂香さんが入れていた。わたしたちはただで泊めてもらっているのだから、食費ぐらい払うと言ったのだがやんわり断られたのだ。いつも、悪いなと思いつつ引き出しを開けていた。
ご主人にお金を渡すと、すたすたとアプローチを逃げるように去っていった。忙しいのに待たせて悪かったなと思ったが、あの配達の男性はいつもおどおどとした目をしてここへやって来る。
あの人が、宗平夫婦の遺体を発見したのだ。さぞ、驚いたことだろう。わたしにとったら過去であるけれど、ご主人にとったら未来に起こることだ。
これから起こるか、起こらないかはまだわからない……今の時点では。
食材の入った段ボール箱を抱えて台所に入る。もう穂香さんは朝食をつくり始めていた。
「おはよう、なっちゃん」
輝くばかりにうつくしいほほ笑みを向けられ、わたしはかすかに口の端をあげ挨拶を返した。しかし、穂香さんの眉尻がさがる。
「昨日、お夕飯食べられなかったけど、今日もしんどそうね」
昨晩はあれから部屋に閉じこもり、具合が悪いと夕食を取らなかったのだ。
「今日は、消化のいい朝粥にするからね――」
ここまで言って、穂香さんははっとして口を手でおさえる。
「あっ、食べられなかったら無理しなくていいのよ。いまの言い方だったら何か押し付けになるわね」
穂香さんはわたしの仮病に気づかず、体調を本気で心配してくれている。この人はどこまでも、やさしくいい人だ。ただ好きになった人が、妻帯者だけだっただけで。悪女というレッテルをはられ、芸能界から半ば逃げるようにして引退した。
わたしは、顔の筋肉をむりやり総動員してとびきりの笑顔をつくる。
「大丈夫です。なんか今日はご飯、食べられそう」
わたしの顔色を心配そうに見守っていた顔は、ぱあっと晴れやかな笑みへと変わる。
「もうちょっと、待っててね。そうだ、お寝坊さんたちを起こしてくれるかしら」
そう言うと、いそいそとキッチンへ入っていった。その後ろ姿を見送ってひとつため息をついてから、わたしは二階へ向かった。
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