第10話 雨音
ふいに、背後から藤原くんの声が聞こえてくる。
「大丈夫か?」
この人は、こればっかり聞いてくる。『大丈夫か?』と聞かれて、『大丈夫じゃない』と弱音をはけるほど、わたしはあなたを信頼なんかしていない。ほんと、姉弟そろって無神経な人たちだ。
それとも、この人はわたしが素直に『大丈夫じゃない』と言うと思っているのだろうか。
「大丈夫――」
わたしは振り返り、息を吸うほど簡単に嘘をついた。
「嘘だろ……。そんな真っ青な顔して、大丈夫なわけない」
藤原くんの台詞を聞いて、頭に血がのぼった。うまくごまかせると思っていたのに、もう無理だった。
「じゃあ、なんて言えばいいの? あのふたりの姿なんて見たくない! 消えてなくなればいいって言えばいい?」
本心がつらつらと口からどんどん漏れていく。一度口にした思いは堰を切ってあふれ出した。
やはり、あのふたりと暮らすこと自体無理な話だったんだ。いくら平気なふりをしたって……。
あの夫婦は迷子のタイムトラベラーを保護する、心優しい人たち。そう自分に嘘をつかないと、ここでは暮らせなかった。六年前の世界では。ここにしかわたしの居場所はない。
自分の気持ちを抑え込んでいたつけがとうとう抑えられなくなり、目の前にいる無神経な人へ向かって八つ当たりしている。
「藤原くんは、侵入者は犯人と違うって言ったけど、侵入者が犯人かもよ」
背後から聞こえてくる激しい雨音に、胸の内が黒く汚く塗りつぶされていく。
今ここに鏡があれば、わたしはさぞ醜い顔をしているだろう。わたしが抱える本当の思いは醜くて、汚い。汚いから、もう抱えていたくない。
「だって。今わたし、あの人を殺したいほど憎い」
こんなこと言ったら、タイムスリップという現実が受け入れられなくておかしくなったと思われるだろう。突然意味のわからないことをわめいているんだから。
しかし、わたしを見つめる藤原くんの瞳から、動揺の色を見て取れない。ただ静かにそこに立ちすくんでいる。
「憎いから、あの人形を木の上に放り投げたのか」
「なんだ、見てたんだ」
この人もとんだ嘘つきだ。あの犯人がわたしだとわかっていたのに、外部からの侵入者のせいにしていた。なんのために?
「二階の窓から見えたんだ。なつが砂場に置きっぱなしの人形を手にして、樫の木に投げつけるのを――」
藤原くんのセリフは激しい雨音にかき消されるほど、ちいさなささやきだった。
「なんで、そんなことをしたんだ?」
「なんで?」
わたしは、唇をひきつらせ口の端を意地悪くつりあげた。白雪姫の継母が、なぜ白雪姫を殺すのだと問いかけられて、さも当然と言い放った気持ちがよくわかる。
「せっかく唯ちゃんと楽しくすごしてても、あの穂香さんの名前がついた人形がいつもそばにいるなんて……。すごく、邪魔だったの」
母が亡くなってからひとりですごしてきた夏休みを、今年は唯ちゃんとすごせる。唯ちゃんにわたしの作った料理を食べてもらいたかったのに。唯ちゃんの寝顔を見ていても遊んでいても、いつもすぐそばにあの人形がぎょろりと眼をあけてわたしをにらんでいた。
「悲しんだのは唯だろ」
藤原くんの声音は私をせめてはいない。ただ、事実を淡々と突き付けてくる。なじられた方がましだ。一番悲しむのは唯ちゃんだって、人形を手放した瞬間わたしにだってわかった。
それでも、あの人形を……、ううん、穂香さんに消えてもらいたかった。
せっかく、せっかく、唯一血のつながった唯ちゃん《いもうと》とすごせる時間を邪魔されたんだから……。
「しょうが、ないじゃない」
わたしのあいまいな答えに、藤原くんは目をそらせた。
「そう、だよな。憎いよな。消えてほしいよな。自分の父親と不倫した女なんか」
ライトのついていない薄暗い室内に、ふいに稲光が走り遠くから雷鳴がとどろく。
「なつの本当の名前は、宗平夏帆」
藤原くんの感情を抑えた低い声で、裁判官が死刑囚の氏名をゆっくり呼みあげるようにわたしの本当の名前を呼んだ。
「清水は亡くなった母親の姓。なつは今でも、父親である宗平東吾の戸籍に入ってる」
そうだろ? と答えをうながすように、形の良い眉が片方だけあがった。
「調べたの?」
やましさを隠したようなおどおどした自分の声に、わたしは少しばかり驚く。これじゃあ、悪いことしたって認めているようなものだ。私は何も悪くない。雇われてここへ来て、タイムスリップに巻き込まれただけ。
わたしが誰かなんて、聞かれなかったから言わなかっただけだ。けして隠していたわけじゃない。
自己弁護を脳内で繰り返しても、むなしいだけだった。もうばれたのだ。唯ちゃんの異母姉妹だと。
雨音は、ますます激しくなっていく。
「当然だろ。二週間も別荘に住み込んでもらうんだから、身元ぐらい調べるよ」
「じゃあ、お姉さんが寝取った男の娘をなんでやとったの。わたしが、血のつながった妹を誘拐するとか思わなかった?」
ここまで吐き出して、はっと思い至る。唯ちゃんの着替えだけでなく、藤原くんは自分の分もトランクに入れてここへ持って来ていた。
「あっ、そうか。わたしが唯ちゃんに何かするんじゃないかと思って、見張るために自分も別荘に泊まるつもりだったんだ。ひどいよね、わたし騙された。ここには、嘘つきばっかりいる。人の家庭壊して天使みたいに笑ってる女と、娘と妻を捨てたやさしい男。ほんと、最悪だよ」
彼の琥珀色の瞳に今、わたしのいけすかない顔が写っていることだろう。反対にわたしの瞳には、苦痛にゆがむ穂香さんに似た顔が写っていた。
目の前にいるこの人も別に悪いことしたわけじゃないのに、嫌味を言われて責められている。ただ、姉が不倫しただけなのに。かわいそうだね。おたがい……。
自分の悪事を棚にあげ、藤原くんの嘘をなじっているわたしが一番最悪だ。でもわたしだけ、こんな汚い感情にのみこまれたくない。あなたもいっしょに溺れてよ。わたしたち、被害者であり加害者なんだから。
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