懐中時計と八月のアリア
澄田こころ(伊勢村朱音)
プロローグ
目を開けると部屋は明るく、リビングから物音がする。昨日、仕事で一日出かけていたお母さんは、帰ってるみたい。
わたしは昨日の夕方遅くに吹奏楽部の練習から帰って、ひとりでお母さんの用意した夕食を食べた。お母さんが仕事の合間に帰宅してつくっておいてくれたので、ラップがかけられたオムライスはまだほんのり温かかった。
夜の十一時までリビングで夏休みの宿題をしながらドラマを見てた。
不倫もののドラマはどうしようもなくつまらなくて宿題ははかどったけど、連日のハードな練習にだんだん眠たくなってきた。
ドラマが終わるとさっさとベットにもぐりこみ、眠りに落ちた。だから、お母さんがいつ帰ったかわからなかった。
翌朝、朝寝坊したわたしがキッチンのドアを開けると、コーヒーの苦い香りが漂ってきて、一気に目が覚めた。お母さんがソファに座り、右手にマグカップを持ちながら新聞を広げてた。
いつ、帰ってきたのだろう?
「おはよう。っていうか、こんにちはの時間だよ。ゆっくり寝てたってことは、今日は部活ないんだね」
お母さんは弾んだ声を出した。
「うん、お盆だから一日だけ休みだよ」
カウンターに置いていたスマホの画面を見ると、もう十一時になっていた。
「もうすぐ大会だけど、一日ぐらいお休みしないとね。この間はテレビに取材されるぐらいがんばってるんだから」
お母さんは、先日うちの中学の吹奏楽部がテレビに出たことを話題に出す。わたしも二年生だけど、ちらっとテレビに映った。
いっしょに見ていたお母さんは、
「見て!
と顔を紅潮させて感心しきりに言ったのを覚えている。
またテレビに映ったことをお母さんに持ち出され、わたしは照れ隠しに腰まである長い髪をゴムですばやくまとめ、テレビのリモコンに手をのばす。
「フルートで二年生のレギュラーってなかなかなれないんだって。保護者会で言われたよ」
お母さんは、娘の自慢を口にしながら立ちあがる。
「お腹すいたでしょ。なんか食べる?」
「うーん、フレンチトースト食べたいな。ダメ?」
お母さんのつくるフレンチトーストは、たっぷり砂糖が入っていて甘くておいしい。おいしいけれど、甘すぎると言ってお母さんが砂糖を控えると、わたしがおいしくないと言うものだから、頻繁にはつくってくれない。食べ過ぎると体に悪いと言う理由で。
今日はあまえたい気分で、フレンチトーストを頼んだ。
お母さんは、機嫌よく「いいよ、つくったげる」と言ってくれた。
「お砂糖ちゃんと入れてね」と注文をつけていると、お母さんは昨夜何時に帰ったのかという疑問をわたしはすっかり忘れ、リモコンのボタンを押した。
まっ黒だった画面は、たちまち暑苦しいおじさんを映し出す。ちょうど、ワイドショーを放送していて、レポーターのおじさんは夏の太陽を一心に浴び視聴者に何か必死に訴えかけている。唾をとばすほどの勢いで伝えたい話題ってなんだろうと、画面の右上の文字を目で追う。
『
小説家と元女優の夫婦が鎌倉の別荘で殺された、という事件の報道だった。私には関係のない人たち。中学生にとって小説家とか元女優なんて、どうでもいい話。
すばやく番組を変えても、どこもこの事件で持ち切りだった。たまらずテレビを切ると、途端にリビングは静寂に包まれる。するとお母さんの声がキッチンカウンターの向こうから聞こえてきた。
「かわいそうね、あの人」
お母さんの言う『あの人』とは暑い中レポートを続けるあの人なのか、はたまた殺された小説家のあの人なのか、それとも元女優のあの人なのか判断がつかない。それくらいお母さんの声には感情がのっていなかった。
すると突然、玄関のチャイムが騒々しくなった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます