第7話 青空
すこしだけ焦げたフレンチトーストとグリーンサラダが、三人だけの食卓に並んだ。唯ちゃんと藤原くんはわたしに怒られたので、余計なことを言わずもくもくと食べていた。
食器を藤原くんが洗ってくれると、わたしの機嫌もよくなってきたので、ひとつ提案してみる。
「最後に、掃除して帰ろうか」
「別に、掃除はいいよ。さっき管理人に連絡して後の始末は頼んだから」
藤原くんは食器洗いをしたところで、掃除までしたくないようだ。でも、唯ちゃんはやる気になる。
「唯、掃除する!」
その一言で、掃除は決定した。まずはお風呂場。タイル張りの床を唯ちゃんとクレンザーを使ってゴシゴシ磨く。大きな湯舟は二人でつかるには十分な広さだった。
二階和室の出窓のガラスをふき、掃除機もかけた。下のリビングはいま、藤原くんが掃除機をかけている。唯ちゃんは、おもちゃ部屋の片づけをしていた。
開け放った出窓から、少し湿気をふくむ潮風が清浄になった室内へ入り込む。この窓に座り、何回この風景を見て風に吹かれただろう。
庭の木々の向こう、住宅がふもとまでびっしりと並ぶ景色は突然とぎれ、海と空が始まる。
青い海と空の境界線はあいまいで、ひとつの果てなき空間として融合している。
波間に浮かぶヨットを見た日、刻一刻とかわる海の色を見た日。月下のブランコを見た日。
たった二週間だったけれど、さまざまに色を変えるこの景色は確実に私の中に刻まれている。
心の中の痕跡を確かめるようにまぶたを閉じ、うっすらと笑みを浮かべる。そして目を開けると、螺旋階段を降りてキッチンの奥にある女中部屋へ向かった。
おもちゃ部屋の片づけが終わった唯ちゃんが、後からついてきた。その手には、アンティークドールが握られていた。
「これ、唯のお人形なんだけど、やっぱりほのちゃんそっくりなんだ」
ほのちゃんと名付けた人形と、唯ちゃんの人形はそっくりだった。
「唯このお人形、東京のお家に持って帰る。これからほのちゃんって呼んでかわいがってあげる」
「うん、それがいいね。ほのちゃんもその方がさみしくないよ」
唯ちゃんは大きくうなずくと、リビングにおいたキャリーケースにほのちゃんを入れてくると言って、駆けて行った。
唯ちゃんはふたたび女中部屋に戻ってくると、きょろきょろと狭い室内を見まわした。
「ここ、唯が隠れたお部屋だ」
「ここも、掃除するから手伝ってくれる?」
「うん。唯、掃除機かけたい!」
掃除機は正直、唯ちゃんには無理だったけれどわたしとふたりで掃除機のハンドルを握るとなんとかなった。
ふたりでゆっくり時間をかけて掃除機をかけていく。部屋に残したままになっていたフルートを書斎に戻そうと拾いあげた。
「最後に、もう一回なっちゃんのフルート聞きたい」
リビングの掃除が終わった藤原くんも、ひょこっと顔を出す。
「俺も、聞きたい。ピアノの伴奏はないけど吹いてよ」
ピアノと聞いて、穂香さんの面影が頭をよぎる。不思議とかなしくはならなかった。
リビングに場所をうつし、フルートをケースから出して組み立てながら何を吹こうか考える。練習していたG線上のアリアに決めた。
リビングの掃き出し窓を開け放ち、ピアノのそばに立つ。フルートをかまえ、大きく息を吸いフルートに息を吹き込んだ。
冒頭の長い長いF音が、別荘の隅々まで響き渡っていく。アリアのメロディは人の歩みに似ていて、掃き出し窓から外へ出て芝生を渡りブランコをゆらす。螺旋階段をのぼり二階の出窓から風に乗って、空高く舞いあがっていく。
そんなイメージが頭の中を駆け巡る。息継ぎをして息を吐き出すたび、心の中がどんどんからっぽになりわたしが透明になっていく。
まるで、わたしがアリアそのものになっているようだった。
たった三分弱の演奏のラストの音が静かに消えていくと、わたしはそっとフルートのかまえをとき頭を下げた。
藤原くんと唯ちゃんからは、拍手が聞こえない。頭をあげると、唯ちゃんは涙を流していた。
「おじさんと、おばさんとお別れしたくなかった。もっといっしょにいたかった」
泣きじゃくる唯ちゃんを目の前にしてわたしはうろたえる。自分ひとりいい気分に浸っていたと反省して謝った。
「ごめん、この曲って悲しい曲だよね。もっと明るい曲にすればよかったね」
せっかくの別荘での最後の時間なのに、笑って終われなかった。
「違う、なんかわかんないけど。みんなでいて楽しかったなって思ったの。いろんなこと思い出したの」
髪を二つにくくった唯ちゃんの頭を、藤原くんがぽんぽんと大きな手でなでる。
「G線上のアリアは、鎮魂の曲だもんな」
「ちんこんって何?」
唯ちゃんの素朴な疑問に、藤原くんは言葉をかみ砕いて言いなおした。
「亡くなった人を、弔うってことだよ」
「とむらうって何?」
「えーっと――」
とうとう、藤原くんは言葉につまってしまった。
「思い出すってことかな。もう目の前にいなくても、目をつむって思い出したらいつでも会えるよね」
そうわたしが言うと、唯ちゃんは納得したのか神妙な顔をする。
「唯ね、この曲聞いておじさんとおばさんが、唯のパパとママだったらよかったなって思ったよ」
「……そう、なんだ」
あのふたりが、両親だと唯ちゃんは知らないはずだけれど、何か感じるものがあったんだろう。
「そしてね、なっちゃんがお姉ちゃんだったらよかったなーって思ってたんだ」
ふっくらしたほっぺがはちきれそうなほどの満点の笑顔で、唯ちゃんはわたしを見た。その笑顔を見ていたら二週間ずっとこらえていた感情が、わたしの内からあふれ出す。
「うん、わたしも思ってたよ。唯ちゃんのお姉ちゃんになりたいって」
わたしはフルートを置いて唯ちゃんを……、わたしの小さな妹を抱きしめていた。
血のつながった妹だと言えない。それでも、唯ちゃんの小さな胸でわたしの思いをくみ取ってくれた。それだけで、この別荘へきてよかったと心の底から思えた。
抱き合って、泣くわたしたちの肩を藤原くんがそっと包み込んでくれた。わたしは「ありがとう」とくぐもった声でささやく。
この別荘へ誘ってくれた藤原くんへ。お姉ちゃんと思ってくれた唯ちゃんへ。
そして、本当の家族のような夢の世界を作り出してくれた穂香さんへ、感謝の気持ちを伝えたかった。
わたしはふと彼の肩越しに、掃き出し窓の外へ目をやる。空には沸き立つ入道雲がそびえていてそのさらに上、空の一番てっぺんに筋雲がたなびいていた。
夏の入道雲と秋の筋雲。ふたつの季節が空の上で行き合っている。もうすぐ、夏から秋へ季節がかわる。
わたしたちの暑い夏が終わる。そして、太陽の恵みが実を結ぶ豊饒な季節を迎えるのだ。
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