第4話 別れ
「でも、どうして穂香さんは、死にたくなったんですか? 父といっしょになって唯ちゃんも産まれて、これからって時に」
「なっちゃんには前に言ったわよね。わたし育児ノイローゼだったのよ。それに加え、父が女優復帰の話をどんどん進めていて。一度は断ったんだけど、私の引退によって父の事務所に与えた損害を思うと、強くは言えなくて」
穂香さんは、いろんな要因が重なって追い詰められていたってこと?
「姉さんの不倫騒動でCM降板なんかの損害賠償も発生してたしな。何より、うちの事務所の稼ぎ頭だったから、姉さんは」
「もう、本当に女優はしたくなかった。また仕事を始めたらバッシングも始まるんじゃないかと思って。でも、そんなことよりももっと私は、私を消したくなることがあったの――」
ここで、穂香さんは間をおく。
「東吾さんがね、テレビを見ていたのよ」
「えっ、父はテレビ見ないんじゃあ」
父が――穂香さんがつくった幻影だったけれど――唯ちゃんに『テレビはね、好きじゃないんだ。だって、一方的に言いたいことを押し付けてくるだろ』と言っていた。
「だから、あの東吾さんはわたしが作り出したのよ」
テレビに対する父の感慨は、穂香さんの感慨だったのか。
「本当は六年前にもこの別荘にはテレビがあったのよ――」
穂香さんの語る声は、ここで一瞬ためらった。
「テレビにね、中学生のなっちゃんがうつってた。フルートを一生懸命練習してた。その姿を見て東吾さんは『夏帆……』ってつぶやいたの。とっても愛おしそうな声で」
地方の情報番組で流れたたった数分の映像を、父は見ていたのか。そんな偶然があるのだろうか。
ひょっとして、母がわたしの学校のテレビ出演を父に連絡したのかもしれない。
それが事実かどうかたしかめることは、もう永遠にできないけれど。
「私は、東吾さんを愛しい娘から引き離した。何より、あの奥さまから奪ったと思ったらもう……消えてしまいたくなって」
「姉さん、なつのお母さんに会ったのか」
「そうよ、奥さま……早苗さんは唯を出産した病院にお見舞いにきてくださったの」
穂香さんの言葉を聞いて、藤原くんは目を見張る。新生児室で会った女の人が、わたしの母だったと思いいたったようだ。
「私は、なじられると思った。なじられ罵倒されることを私はしたから、当然の報いだと思ったのだけど、早苗さんは唯の出産をねぎらってくださった。私は、もううれしくて、うれしくて……でも」
穂香さんの声のトーンが一段低くなる。
「早苗さんが帰って、無性に怖くなったの。こんな素敵な奥さまを捨てて、東吾さんは私を選んだ。きっと、私もそのうち捨てられるんじゃないかって」
わたしは、その穂香さんの思い込みを否定できなかった。父は穂香さんと不倫する前にも、過去に浮気をしていたんじゃないかと大人になって気づいた。
小さなころ、見知らぬ女の人に声をかけられたことがあるのだ。
『いつも、宗平先生にはお世話になってます。よろしくね、夏帆ちゃん』
とその女性は言ったのだ。その時はわけがわからなかったが、浮気相手はマーキングのつもりで娘に会いにきたのだろうと、今ならわかる。
父は、小説家としては素晴らしい人なのだろうけれど、男としてはただ優しいだけのどうしようもない人なのだ。男の優しさは、愛とは呼べないのかもしれない。
母はそのことがわかっていて、小説家宗平東吾を愛していたから、父の浮気を許せたのだろう。
穂香さんは、どちらの父を愛していたのだろう。
わたしは穂香さんの告白を聞き、冷静に父と穂香さんに起こったことを受け入れたつもりだった。受け止めて最後に別れを言おうとしたのに、違うことを叫んでいた。
「穂香さんは、馬鹿です。すっごい馬鹿な人です。なんであんな人のために、死んじゃうんですか。そんな価値はあの人にない!」
自分の父親を全否定して、不倫相手の女性に同情していた。
穂香さんから真相を聞かされても、わたしはまだ納得できない。父はおいておいて、どうして穂香さんが不幸にならないといけなかったのか。かわいい娘をおいて死ななければならなかったのか。
「ありがとう、なっちゃん。私もね、本気で死のうなんて思ってなかったのよ。でも、気づいたらナイフを持ってた。死んだあとも信じられなくて、こうしていつまでもこの世に留まっている」
「俺たちが、毎年別荘に来ていたのを見てたのか」
藤原くんの、抑えた声がわたしの泣きぬれた心にしみる。そうだ、わたしが悲しい以上に藤原くんはもっとつらいはずだ。それなのに、わたしはひとり盛大に涙を流していた。
「見ていたわ。唯と彬がここにくるのを楽しみに待っていた。どんどん大きくなる唯はかわいいし、彬も大人っぽいイケメンになっていくし」
「見てたなら、こうやって出てきてくれたらよかったんだよ。こんな回りくどいことしなくても」
「本当に、そうね。でも、最期にこうやって夢のような時間を過ごすことができてよかった。あの懐中時計のおかげね」
藤原くんは伸びた前髪からのぞく大きな瞳をゆっくりと閉じ、ふたたび目をひらき何もない空中に話しかける。
「もう、いくのか? 唯に会ってけよ」
藤原くんがひきとめると、穂香さんの声は明るく返した。
「これ以上、あの子のそばにはいられない。顔なんか見たら、離れられなくなっちゃう」
わたしはたまらず、しゃがみこみ膝をかかえ顔をうずめた。ダンゴ虫のように丸まって、これから起こる出来事から自分を守ろうとした。
もうこれ以上藤原くんのいろんなものを我慢している顔を見たくない、穂香さんの無理に明るくふるまっている声を聞きたくない。
何より、わたしが穂香さんと別れるのが耐えられなかった。わたしはさっき、母と別れてきたばかりなのに、また同じように亡くなった人を見送るなんて。
さようならは、一日に一度で十分だ。これ以上は許容オーバーで、ただ子供のように泣きじゃくるしかできない。
「あなたたちに、逢えてよかった。さよう、な、ら――」
穂香さんのおだやかでやさしい声は、かすれて闇にとけていった。
これからあの世にいって、父と再会するのだろうか。ふたりは、再会したらなんと声を掛け合うのだろう。
穂香さんの恋は、正しくなかった。それだけは断言できる。一般常識に照らし合わせれば、不倫は悪いことだ。
それでも人を好きになる心は自由で、他人との比較で生まれる不確かなもので縛れるわけがない。
正しくはないけれど、間違ってはいなかった。穂香さんの恋は常識という安全圏から、簡単に否定していいものじゃない。
わたしはふと膝から顔をあげ、横に立つ藤原くんに目を向けると、彼は真っすぐ前を向き拳を握りしめていた。
「ありがとう……さようなら」
藤原くんは、感謝と別れの挨拶を喉の奥から絞り出していた。そして視線をさげて、わたしに手を差し伸べた。
「立てるか」
わたしはその手をとり、力を入れて立ちあがると藤原くんに抱きついていた。
「ずるい。ずるい、ずるい!」
わめくわたしの背中を藤原くんは、そっとなでてくれる。
「何がずるいんだ?」
「こんなお別れしたら、穂香さんのこと忘れられなくなる。忘れたくても、忘れられない」
「忘れなくても、いいだろ別に」
「ずっと覚えてたら、かなしい。かなしくて、無性にさみしくなるから嫌なんじゃない」
「えっと、その論理。意味わかんない――」
わたしは藤原くんの胸にうずめていた顔を、ぱっとあげた。わたしの気持ちをわかってくれない彼をにらんだのだけれど、そのキリンのように眠たい顔がどんどん近づいてきて、文句を言おうとしたわたしの口をふさいだ。
ほんの数秒後に離された唇と唇の隙間から、わたしは声をもらす。
「何してるの?」
わたしはあきれて、数センチの距離しか離れていない彼の顔をにらんだ。
「何って、キスしたんだけど、なつが、ここに帰ってきたらやり直すって、俺言っただろ」
「もう! それ、今じゃないから」
「あれ? 今じゃないの」
「タイミング、悪すぎ」
わたしのダメ出しに、藤原くんは大きくため息をつく。
「やっぱり、なつと唯は姉妹だよ。言ってること、そっくり」
「うん、わたしも自分で言ってて、唯ちゃんにそっくりだなと思った」
わたしたちは、お互いをみつめたまま吹き出した。ふたりの笑い声につられたように、カーテンが風を受けふわりと揺れた。それは穂香さんが笑った時に、肩で揺れた巻き髪の動きに似ていた。
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