第5話 歌碑

 寺務所にいた作務衣のお坊さんにお礼を言い、外へ出ると目の前には美男の大仏さまが先ほどと変わらないお姿でそこに座っていた。仰ぎ見ると、とたんに額に汗が浮く。


「もう、今日は無理せずに帰ろうか」


 藤原くんがわたしの顔色を心配げにうかがっている。


「まだ、与謝野晶子の歌碑見てないよ」


 このまま帰ってもよかったけれど、やはり見ようとしていたものを見ずに帰るのは、与謝野晶子に失礼なような気がした。


「あっ、そうだったな。じゃあ、こっちだ」


 事務所を出て右側、回廊を通り抜け小道を歩いていくと木立の下に縦長の歌碑があった。石でつくった短冊に、自然石の額縁をつけたような形をしている。


 わたしは、歌碑を見あげながら声に出して歌を詠みあげた。


「かまくらやみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな」


 息を大きく吸い込み、瞼をとじると先ほど見た大仏さまの憂いをおびたお顔が脳裏に浮かぶ。


「うん、ちゃんと美男に見える。満身創痍のイケメンに」


 藤原くんが、ぶっと勢いよく吹き出した。


「なんだ、それ。でも、満身創痍はあの胎内を見たら納得だな」


「でしょ。なかなかいい表現だと自分でも思う」


 わたしは、得意になるというよりも軽口をたたいて笑っていた。


「さすが、宗平東吾の娘だな」


 とたんに、わたしの笑う口元がひきつった。そのわずかな変化を藤原くんはみのがさず、気づいてくれる。


「あっ、ごめん。余計なこと言った」


 この人は、本当に真っすぐで素直な人だ。


「謝らなくてもいいよ。わたしはたしかに、宗平東吾っていう小説家の娘だけど、あの人の作品は読んだことないから、才能は受け継いでないな」


「本当に、一冊も読んでないんだな――」


 藤原くんは言葉をにごし、視線をわたしに走らせてぽりぽりと頭をかいた。


「えっと、前に言ってた『時の螺旋』って本覚えてる? 主人公が章文っていう」


 わたしは、黙ってうなずく。藤原くんの偽名はそこから取っていた。


「あの小説、与謝野晶子と鉄幹をモチーフにしてるんだ」


「読んでみてどうだった?」


 本の内容なんて興味がないのに、藤原くんの感想は聞いてみたい。


「すごかった。夫婦の愛憎の物語なんだけど、とにかく主人公の章文が魅力的で、ダメな男だけど憎めない造形になってて――」


 藤原くんは熱にうかされたように、熱心に作品を語り始めた。大好きなことに夢中な男の子そのものの、はずんだ声だ。


「こだわりと美意識を過剰に持ってて、人生は自分の作品と思ってる節がある。奥さんもその美意識を理解しててどんなに女遊びをしても、最後には許してる」 


 鉄幹には最初、別の妻がいた。それを晶子がうばったのだ。なんだか、どこかで聞いたような話だ。


「男性作家が書く、男の都合のよさでしょ」


「そうかもしれない。そうかもしれないけど、その筆力と行間からにじみ出る情熱に圧倒された」


 自分から感想を求めたくせに、わたしは父の小説に対する藤原くんの絶賛を、自分勝手にもうとましく感じていた。


「どうしてそんなに素直に称賛できるの。あなたにとって、宗平東吾は殺したいほど憎い相手だったんでしょ」


 父の内面でつくりあげられた、都合のいいことばかり書かれたフィクションなんてよく読めるね。絶対自分を美化し、正当化してるに決まってる。そんなものをよく……。


「子供の頃はな。でも、大学生になって脚本家目指すようになって、宗平さんの本をとにかく読み漁った。脚本家の先生にすすめられて」


「えっ、脚本家? 藤原くんは俳優になるんじゃ――」


「はっ? 誰がそんなデマを。俺、脚本家のアシスタントしてるんだ。先生の資料整理や収集の手伝い。あとは使いっぱしりが主な仕事だけど」


 本当だ、誰が言ってたんだろう。誰が言ったかわからないようなことを、わたしは今まで信じていた。


「ごめん、忘れて。それで本を読んだから恨むのやめたの?」


「そう、いつのまにか消えてたんだ。読めば読むほど、俺とは男の格がちがう。宗平さんは自分の人生をかけて、身を削るようにして『時の螺旋』を書きあげたんだって思った。そんなこと、とてもじゃないけど俺にはできない」


 藤原くんは、大きくひとつため息をつくと歌碑を仰ぎ見る。


「宗平さんの本読んでると、ボスザルに降参する若いサルの気分になるんだ」


「サルって――」


 およそサルとはほど遠い顔で言われると、おもしろすぎる。好きな推し作家のことを語って、満足している顔もおかしい。わたしはとうとう笑い出した。


 おかしくて、おもしろくて、バカバカしくて笑った。藤原くんはキョトンとした顔をしているけれど、あなたのことを笑っているんじゃない。


 自分の殻に閉じこもり、何も知ろうとしなかったわたしを笑っているの。


 不倫男のご都合主義だと決めつけて、父の小説も読まない。あなたの噂を鵜呑みにしていた。わたしは人の表層しかみない、浅はかな人間だ。


「ひどいな、俺真剣に答えたのに」


「だって、藤原くんが自分のことサルっていうのがおもしろくて。全然似てないのに」


「男はみんなサルみたいなもんだと思うけど。やりたいことに夢中になって突っ走る。何にも考えずに。ほんとサルだって」


 父も藤原くんの言うように、やりたいことに夢中になっているサルみたいなものなんだろうか。穂香さんが言っていた、わからなくて不安になるって男のサルの部分?


「わたしより、藤原くんの方があの人のことわかってるみたい。わたし娘だけど、ほとんどいっしょにすごしたことないの」


「うちの親父も仕事ばっかりだったな。母親もいないし、小さいころから姉貴にべったりだったんだ」


 小さな藤原くんが、穂香さんの後を追いかけている光景が目に浮かぶ。


「かわいかったんだろうね」


「ああ、姉貴はかわいかったよ」


 わたしは藤原くんが、かわいかったんだろうと思ったのだけれど、わざわざ訂正はしなかった。



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