三話⑤
そうして、わずかのうちに、約束の日がやってきた。
十二時少し前にたどり着いた尾形家の屋敷は、人払いでもしているのか、しんと静まり返っている。母屋も離れからもすっかりと明かりは消え、体にのしかかるような重い闇が屋敷いっぱいに広がっていた。
「浅宮くん」
薄雲がどんどんと流れていく夜空に目を向けていると、声とともに、尾形秀治が姿を現した。
「気持ちは、本当に決まったのかな」
えぇ、と返事をすると、尾形秀治はあのむっつりした顔でうなずいた。
――大人だよな。
気づかれないように、俺は口のなかでだけでつぶやく。
市女先輩の命を自身の手ではなく、俺に奪わせようというのは、万が一でも神殺しの災厄が尾形家に降りかからないようにするためだろう。
その魂胆に小さく鼻がなった。適度な責任感と、それに伴う危険をうまく俺に押しつけようとする大人のずるさがこの人のなかで同居している。
そんな俺の気持ちに気づいているのかいないのか、尾形秀治はあの真面目くさったような顔で、言葉をつづける。
「もし、あれが説得に応じるなら、それはそれでいい」
「…………」
「ただ、もし、そうでないならば……」
黙ったままの俺に、尾形秀治は一振りの短刀を手渡した。
「草薙の剣というわけではないけれど……」
これで市女先輩を手にかけろということか。
吐息一つ分の間をはさんで刀を受け取り、鞘から抜いてみる。刀剣のことなんて詳しくないどころか、今初めて本物を目にしたくらいだけれど、月の光を反射する刃はいかにも鋭く見えた。
「準備はいいかい?」
無言でうなずき、刀身を鞘に納める。
「行こう」
尾形秀治に伴われ、雅卵堂まで足を進める。漆喰で塗りこめられた雅卵堂は夜目にも白く、闇のなか、それだけが異物のようなたたずまいをみせた。
その扉の鍵と貼られていた封印を解き、尾形秀治が俺にうなずいてみせた。
「それじゃあ……」
俺が雅卵堂のなかへ足を踏み入れた途端に、かちゃりと鍵の閉まる音がした。冷静なように見えても、尾形秀治も内心ではだいぶ冷や汗をかいているようだった。
「…………」
ろうそくの炎がいくつか揺れるだけの雅卵堂を、慎重な足取りで進む。薄暗さに加え、天井が高いこともあり、雅卵堂は外見よりも、ずっと広く感じられた。
「開くん」
その部屋の壁際に、市女先輩はいつもの制服姿ではなく、白の襦袢だけを身にまとい、座っていた。
「久しぶり……、っていうのも変かな」
こんな場所に閉じ込められていたというのに、先輩はにこにこと、いつもの明るい笑顔で俺に声をかける。
「あれ、なんだか元気ないね」
「先輩のほうは……」
そこで俺の言葉は止まった。想像していなかった状況に、困惑を感じていた。
雅卵堂に閉じ込められ、先輩は窮地に陥っているのではないか、もっと憔悴しているのではないかと思っていたけれど、まるでそんな気配はない。学校で見ていたときと同じ、明るく、朗らかな態度で、先輩は俺の前にいる。
「それで、今日はお父さんに言われてきたんでしょう」
「そうです」
短く返事をすると、やっぱりね、と先輩がうなずいて見せた。
「私が邪魔なんだよ。あんまり言いたくはないけれど、お父さんたちが欲しいのは、結局はお金だよ。もともと、大昔に蛇神を家に招き入れたのだって、家を繁栄させるためだからね」
「…………」
「お父さん、私のことなんて言ってた?」
「方丈に、狂わされたって」
正直に伝えると、先輩は少しだけ悲しげな表情を見せた。
「確かに、そうかもしれないね」
一言つぶやき、先輩は過去を語りはじめた。
「私ね……、小さいころ、どうして私がここにいるのかわからなかった。人のなかにいても、いつも一人ぼっちだったし、お父さんも家の人も、みんなが私のことを邪険にした」
「…………」
「家にも学校にも身の置き所がなくて、開くんといっしょに行った山だけが自分の居場所だった。そこで、ある日ね、頭巾を被ったたまちゃんと出会ったの」
過去をもの語る先輩の声には、懐かしさといつくしみの情が多分に感じられた。
「たまちゃんは、いきなり私に言ったの。……あなたは普通の人間じゃありませんって」
「…………」
「じゃあ、私って何なのって聞いたら、神さまだって言った」
ふ、ふ、と、いかにもこらえきれないような笑い声をおさえるようにして、先輩は自分の口に手を当てた。
「私、その言葉をおかしいって思わなかった。つづけて、聞いたの。何の神さまなのって。そうしたら、なんて言ったと思う?」
「わかりません……」
「たまちゃんはみんな以外の神さまになってくださいって言った。世界のまんなかで生きられない人たちの神さまになってって」
「…………」
「それから、たまちゃんは私にたくさんのことを教えてくれた。いろんな国の蛇の神さまのことや神話、自分の好きな音楽のこととかもね」
出会いの日から、二人の関係は人知れぬところで育っていったようだった。
「それだけじゃなくて、たまちゃんとはたくさん遊んだよ。ゲームもやったし、ごっこ遊びとかもした。たまちゃんはよく私にお母さんの役をさせたなぁ」
ああ見えても、あいつも誰かのぬくもりを求めていたのだろうか。そうだとすれば、方丈と俺はよく似ていたのかもしれないと今になって思う。
「開くんさ、たまちゃんの家で、あの大きな卵の像を見たことある? たまちゃんはね、あのなかに入るのが好きだった」
「…………」
「あのなかで、たまちゃんのお母さんは自殺してたの」
え、とつぶやき、息が止まった。
「どうしたの?」
「俺、あそこで女の幽霊を見ました」
「そうなんだ」
「あれって、まさか方丈のお母さんだったんですか」
俺の言葉に、先輩は笑っただけで、答えをくれなかった。
「お母さん、どうして死んじゃったの。どうして、私を一人にしたのって、泣いちゃったたまちゃんを私が慰めたんだ」
その代わりのように、方丈の過去をものがたる。
「いっしょに卵のなかで、イエローモンキーの音楽も聴いたなぁ。あれはね、たまちゃんのお父さんが残したものなんだよ」
その蜜月状態の間に、良くも悪くも、方丈は先輩を自らの望むような存在にしたてあげてしまったということか。
尾形秀治は、それを方丈に狂わされたと言った。けれども、尾形家の先祖が金銭的な富や名誉を、神に望んだことと何が違うのだろう。
市女先輩という半人半神の存在がいたから、方丈のなかでゆがんだ信仰が生まれたのか、それとも方丈の願いが市女先輩という神を形づくったのか。
どちらにしても、そうなる土壌は十分にあった。
卵の神であるしんらんさまをまつる尾形家。
想定外の事態から生まれた、半人半神の存在である市女先輩。
方丈の過去に、金光しんらん教の教え、そして、蓄えられた古今東西の蛇の神や神話の知識。
方丈はあの卵の模像のなか、先輩の隣で、きっとこう願ったのだ。
この卵を本物にしてください。
そして、先輩は方丈の、ゆがんだ妄想に近い願いを叶えてしまった。
「お父さんが言うみたいに、確かに私はおかしくなったのかもね。富や名声をこの家にもたらすことなんてできないもの」
ふぅ、と息をついたあと、先輩は一度、視線を下げた。
「それで、開くんも今日は言いたいことがあって来たんだよね」
「先輩は……、自分のやっていることがおかしいとは思わないんですか?」
「おかしい?」
「だって、そうでしょう。ひきこもりを卵にするなんて……」
それは本当の意味で、ひきこもりにまつわる問題を解決しているのだろうか。その原因を正すのではなく、まるごと消してしまうような方法への疑問は、今も心から消えずにいた。
結局、生きることをあきらめ、当人たちが直面していた様々な問題から逃げただけじゃないのか。
これはましろのようなひきこもり本人だけはでなく、家族である俺にとっても同じことだ。
あの安藤の姉も俺も、ひきこもる家族のことを心配しながらも、重荷に感じていた。その存在を背中からおろし、ないものにしてしまかのようなやり方を、正しいと言うには強い迷いがあった。
「私のやっていることって、そんなにひどいこと?」
けれども、そう問い返されれば、言葉につまった。胸に下げたましろの入った袋にも目をやる。結果だけを見れば、先輩は苦しむましろを救ってくれたのだから。
「開くんはましろちゃんを元に戻してほしいの?」
「それは……」
「でも、ましろちゃんだって卵になることを望んだんだし、たまちゃんだって、早く卵にしてほしいっていうから、たまごもりしてあげたんだよ」
あの手紙を読む限り、ましろが元の姿に戻ることを望んでいるとは思えなかった。
「ましろちゃんだって、不安ばかりの気持ちで部屋にひきこもっているよりずうっとよくないかな?」
「…………」
「安心してるんだよ。みぃんな……、卵のなかでね」
口にしながら、先輩が周囲を見渡した。つられて顔を動かしたとき、ようやっと気づいた。
雅卵堂の壁かけに、いくつもの卵が並んでいた。
その口ぶりからも、先輩は自らの行いを少しも間違っているとは思っていない。それどころか、誇ってもいるようにさえ見える。
これ以上言葉をつづけても、先輩がましろや方丈たちを元の姿に戻してくれるとは思えなかった。
「それに嫌がる人を無理やりに卵にしているわけじゃないし……」
言葉の途中で、あ、と口に手を当てた。
「開くんのことだけは、強引に卵にしようとしちゃったね」
「…………」
「怖がらせちゃってたら、ごめんね。あの状態になると、私も心の抑えが外れちゃうの。どうしても卵にして、私の元に置いてあげたい気持ちでいっぱいになったの」
「それは……、どうして?」
「私ね、開くんのことが大好きなの」
「俺の、どこが?」
「顔……、ていうのは、半分冗談、半分本気。前にも言ったでしょ。開くんって、見ててね、いつもどこか辛そうだったから」
「そんな……」
「お母さんに捨てられたこと、悲しかった? 本当はすごくショックだったでしょう。ましろちゃんのことでも悩んで、見ててね、助けてあげたくなった」
「…………」
「私、開くんも救ってあげたい」
すっと立ちあがり、先輩は俺に近づいてきた。真正面に俺を見すえ、ゆっくりと歩みを進めてくる。
「私は神さまだから」
市女先輩はにっこりと、まさに神さまのような、晴れやかな笑みを見せた。
「苦しんでいる人を助けてあげるのが、神さまの役目でしょう」
方丈たまきの願いを受け入れたのも、この性格のためなのか。先輩は自分を求めるものを決して拒まない。それは蛇神の、様々なものを飲み込もうとする――ときに、それは世界すべてでさえを――性質を彷彿とさせた。
「よく、わかりました……」
後ずさりしながら、俺は背中に隠していた短刀を鞘から抜きはらい、先輩に構えてみせた。
「開くんなら、いいよ」
刀を見て、先輩が歩みを止めたのも、ほんの束の間のことだった。
「私を殺せば、ましろちゃんもたまちゃんも、ほかのひきこもりの人たちも元に戻るよ」
「いいんですか、先輩はそれで?」
「そうしたいんでしょう?」
問われれば、答えにつまった。
「でも、私は死ににくいからね。あの夜、玉森の子に切られた傷もすぐに治ったし。そうとうぐっさりいかないと、殺せないんじゃないかなぁ」
先輩が俺の頬の傷跡にそっと触れた。
「開くん、どうするの?」
そのまま顔を近づける先輩に向けて、ある言葉を伝えた。そして、わずかの間もはさむことなく、絹を裂くような悲鳴が雅卵堂のなかに響きわたって……。
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