幕後

「今日もありがとうね」

「いえ……、それじゃあ、おじゃましました」

 辞去の挨拶をして、そのまま俺と玉森は訪問していたひきこもりの家をあとにする。

「もう、二カ月か……」

 その帰り道、玉森がため息をつくように言った。

「二カ月って、何が?」

「それは……、いろいろあってからだよ」

 いろいろと玉森がぼかしたように、俺もまだあの夏の出来事をうまく言葉にすることができないでいた。

 ……あれから時間は矢のように過ぎていき、肌に感じる風はずいぶんと冷たくなっていた。あれだけうとましく感じられた夏の暑さも過ぎ去ってしまえば、どこか寂しく感じてしまう。それは目の奥や肌の芯に、あの強烈な光の輝きと強さが焼きつけられているからかもしれない。

 気候だけでなく、目の前に広がる光景も、その様子を大きく変えていた。

 夏には緑色にとがり光っていた稲もすっかり色が変わり、道の脇に立つ木のなかには、ほとんどその葉を落としてしまったものもある。

 変化は自然にだけあったわけではない。玉森は卵守りとしての役目をきっぱりと返上してしまったらしい。剣術の道具ではなく、今は前からやりたかったというエレキギターの入ったバッグを背負っている。

 また、暇になったからと、玉森に誘われて、俺はひきこもり支援の団体にボランティアとして、いっしょに参加するようになっていた。

「ましろちゃんには、何か変化あった?」

「いや、何もないよ」

「どうしてだろうね……」

 あれからも、ましろや方丈、ほかのひきこもりたちも卵から元の姿に戻ってはいなかった。

「でもさ、いつかは元に戻るかもしれないよね」

 励ましの言葉を口にしながらも、玉森の声には明るさはなかった。

「浅宮も、体、大丈夫だよね……?」

「先輩が助けてくれたおかげで、俺のことは心配ないよ」

「そう……」

 市女先輩や方丈が姿を消したことは、町でも学校でもずいぶんと大きな話題になった。

 大きすぎる尾ひれのついたものから、尾形家の秘密にかなり近づくような話も耳にしたけれど、人の噂もなんとやらの言葉とおりに、いつの間にか下火になっていた。

 行方不明者の一人として数えられたましろの家族として、俺の元にも警察が来た。もちろん、本当のことを口にはしなかったし、仮にそうしたとしても、頭がおかしくなったとしか思われないこともわかっていた。

「あの夏のことさ、なんだかずっと昔の出来事みたいに感じない?」

「昔っていうよりさ……」

「え?」

「長い夢を見てたようなもんじゃないかな」

「夢?」

「そう、長い夢。今でも、信じられないようなさ」

「よくわかんない……」

 それ以上話すことをやめ、俺は覚えたての歌を口ずさんだ。

「浅宮、イエローモンキーなんて聴くの?」

 その歌を聴いた玉森が少し驚いたように言った。

「やっぱ有名なんだ」

「まぁ、ロックが好きなら知ってても不思議じゃないけど、浅宮はどこで知ったの?」

 いぶかしむ玉森の問いに答えず、イエローモンキーの曲、『SPARK』のサビを小さく歌う。

 この歌を、先輩も方丈も聴いたのか。そう思うと、少しだけ気分が晴れるようだった。

「でも、浅宮さ……」

 つづいた玉森の声には、おかしさがこらえきれないでいた。

「浅宮って、歌下手だね」



 玉森と別れたあと、ふと思いたって、俺は尾形家の近くまで足を運んだ。

 尾形家の屋敷は相変わらず大きく、立派で、市女先輩がいなくなってからも、何も変わりないように思える。

 尾形秀治のもくろんだとおりではないものの、しんらんさまという神の座に空席ができた。

 尾形家の繁栄はしんらんさまによりもたらされたていた。市女先輩が消えた今、尾形秀治は再びたまむかえの儀式を行うのだろうか。

「どうでもいっか……」

 思わず、口から出てしまったように、そんなことはもう俺には関係がなかった。

 この先、尾形家がどうなろうと、尾形秀治が何をしようと興味もなかった。

 そのまま踵を返し、尾形家をあとにした。



「ただいま」

 家に帰った俺の声にばあちゃんの返事は返ってこなかった。

 あれからもばあちゃんとの関係は元に戻らなかった――といっても、その前からよくもなかったか――けれど、もう気にはしていなかった。

 高校を卒業したら、どこかに就職して、この家を出る。そうなれば、もうばあちゃんと会うこともなくなるだろう。

 そのことに一抹の寂しさを感じながら、部屋に戻ると、机の引き出しを開け、菓子の空き缶を取り出す。

「ただいま」

 そのなかに入れていた三つの卵に言葉をかける。

 並んでいるのは、卵になったままのましろと方丈、そしてあの夜に市女先輩が残した卵だ。

 玉森に言った長い夢はまだつづいている。

 あの夜、先輩は死んだわけではなかった。自分のしっぽをくわえるウロボロスのように、その生と死は表裏一体なのだろう。俺に自らの命を譲ってくれた先輩は、死んだのではなく、自ら卵へと、はじまりの姿に戻ってしまった。

 卵になった自分自身を、先輩は俺に託した。蛇や龍――ちなみに鮫でさえも――が宝珠を人間に渡す話があるけれど、まさしくこれは先輩から俺に託された宝なのだ。

「…………」

 机につっぷし、ぼんやりと三つの卵を見つめる。

 ましろと方丈はこれからも、卵のなかにこもりつづけるだろう。

 ときどき、その顔を無性に見たくなるときもあるけれど、当人たちがそのままでいいというなら、仕方のないことだ。

 ただ、市女先輩はそうではない。命の力を失い、一時的に卵の姿に戻っているだけだ。

「いつかは……」

 市女先輩はこのなかから再び姿を現すだろう。

 いつか……、そう、いつの日になるかはわからないけれど、この卵から再び神さまが現れる。

 そのときのことを思い描きながら、俺は目を閉じた。

 いつかきっと、市女先輩という神さまが俺たちを救ってくれるだろう。

 それはいつになるかわからないけれど、そう遠い未来の話ではないように思われた。

 そのときの光景を心に描きながら、眠りにつくことにした。

 今はただ、やさしく、穏やかな夢を見ていたかった。

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