幕前②
『負けたー』
『これで三勝一敗ですね』
『やるね、ましろちゃん』
ゲームの通信対戦をおえると、そのままチャット機能を使い、彼女とおしゃべりをする。
プレイしていたのは『●●●』の二人マッチ。彼女のランクも結構上のほうだけれど、タイマンなら私にはまだ及ばない。
そのままチャットをつづけていると、階段をあがる音が聞こえてきた。
ああ、嫌だ。
瞬間、身がすくんでしまう。その足音が誰のものなのか、これから何を言われるかはわかっているから、急いでベッドのなかに潜り込んで、耳をふさいだ。
「ましろ」
ほら、お兄ちゃんだ。
部屋の扉の前で、お兄ちゃんがいつものように私にお説教をはじめる。その言葉の一つも耳に入れたくはない。どうせ、いつも同じことを言うんだ。愚にもつかないようなことばっかりをいつもいつも。
――バカ、バカ、死ね。お兄ちゃんなんて死ね、死んじゃえ!
ベッドの上で膝をぐっと体に抱き寄せて、お兄ちゃんの言葉をひたすらにやり過ごす。
どうしてお兄ちゃんは私の気持ちをわかってくれないんだろう。
本当は、お兄ちゃんだっていっぱいいっぱいで生きているくせに。心の底では、私と同じ気持ちでいるくせに……。
それから、十分ほどで今日の儀式は済んだ。
お兄ちゃんが自分の部屋に戻ったことを確認してから、むっくり体を起こす。
「あぁーあ……」
すると、体の奥深い場所から、ため息がもれた。
嫌悪感という沼にどっぷりつかってしまい、ろくに体も動かすこともできないまま、壁に貼った『ベルセルク』のポスターにぼんやりと目を向ける。
あの大剣を横構えにしたガッツの周りに、漫画の各シーンが配置された広告のポスター。『ベルセルク』は好きな漫画の一つだけれど、私はガッツやほかのキャラクターのように、少しも強くないし、そんなふうにもなれそうにない。
漫画の登場人物たちほど辛い目にあったわけでもないのに、傷つくことが怖くて、私はこの部屋からほとんど動けないでいる。
そう、私はこれからも、ずうっとこのままなんだ。そんな自分の情けなさに、涙がこみあげ、視界がじんわりゆがむ。
――お兄ちゃんに言われることなんて、私が一番わかってる!
どうして、私は普通の人と同じように、みんなとうまくやっていけないんだろう。ひどくいじめられているわけでもないのに、教室にいるだけで、変に体がこわばってしまう。
私は、うまく生きていけない。
人の悪口に調子を合わすことができなかった。浅宮さん、かわいいよねって言われても、愛想笑いが顔に浮かばなかった。
かっこいいっていう男子がいても、私はそうだねって言うことができなかった。みんなのなかで流行っているものに、いいねってうなずくことができなかった。
おどおどする私に、何、こいつという視線が向けられ、影で笑われるようになった。
私はみんながうらやましかった。
人に合わせてばかりの子を、ばかみたいと思う気持ちもなかった。心にもないことを言う子を、ずるいとも感じなかった。誰かがいなくなった途端に、その子の悪口を言うことを汚いと責めることもできなかった。
きちんと人間の振りができているみんなが、私はうらやましかった。
そんなこともできない人間未満な私は当然、その輪から外れた。
教室の隅、聞こえてくるみんなのひそひそ話に心がびくびく。みんなのくすくす笑いに、体がぐずぐず。
クソ雑魚メンタルな私。学校以外の、人と直接顔を合わせないですむゲームですら、多人数やチーム対戦になると、もう無理だった。ふざけた感じでも、あれこれ言われると、無性にビビってしまう。
私と同じひきこもりの人たちが集まる場所でも、私はうまく話をするどころか、緊張で息をすることすらいっぱいいっぱいになってしまった。
そこにいた人たちと、二言、三言は言葉を交わしてみたけれど、それだけで疲れ切って、家に帰った途端、立ちあがることができなくなった……。
普通の人にとってなんでもないことが、いつか平気になって、昔はあんなふうだったなんて、笑える日が私にやって来るとは到底思えない。
将来のことを考えていくと、気持ちはもっともっと暗くなってしまう。
高校生になったら、どうなるのだろう。学校に行けているのかな。ううん……、そもそも、高校に進学出来ているかだってわからない。
子どものころから、人付きあいがうまくできなかった私が、高校デビューできるとは思えない。むしろ、今と同じで……。
高校生になった自分を、私はうまく想像できない。だから、いつか、どこかで働いている姿はもちろん、大人になった自分のことさえも頭には思い浮かばなかった。
学校に行けなくても、才能のある人――作曲ができるとか、歌がうまいとか、絵が描けるとか――はいい。
けれども、私は何もできない。運動も勉強もできないし、それ以外の才能もない。ゲームだって得意だけれど、プロには到底及びもしないんだから……。
『どうしたの? 寝落ちた?』
はっとして、画面に目を戻す。
『あ、いえ……』
そんな私にできた友達――そう言っていいよね?――が彼女。彼女とはゲーム上でも、リアルでも話すことができた。それは彼女も私と、本当の意味で同類だからかな。
『なんていうか、お兄ちゃんがウザくて』
『あぁ、いつものお説教プレイ』
『プレイじゃないですけど』
彼女には軽くだけれど、私の家の事情は伝えていた。お母さんがいないこと、岡山に住んでいるおばあちゃんに引き取られたこと、お兄ちゃんのこと、そして、私のひきこもりのこと……。
『お兄さんのこと嫌いなの?』
『嫌い。大嫌い』
『レス早すぎ(笑)』
リアルではぼそぼそと、細い声で話すのに、チャットだと彼女のテンションが変わって、言葉遣いすら違うことが少しおかしい。
『あの、そっちは兄弟います?』
『血はつながってないけど、私にもお姉さんみたいな人いるよ』
『やさしい?』
『うん、少し変だけど、私にとっては神さまだから』
『いいな。あ、でも、うちも私がまだ小学校の低学年のころとかは仲よくて』
『ほうほう』
『お兄ちゃん、私のご飯つくってくれたり漫画買ってくれたり、いじめてくるやつとか、変な男から助けてくれたりもしたな』
『助ける???』
『あ、うちの元お母さん、水商売的なことをやっていて』
『ふぅん……』
『なんて言えばいいのかな……、付き合う男の人がどんどん変わる人で、その人たちが家に来たりしたんです』
『げ。それ最悪』
『そのなかにロリコンみたいなやつがいて、私にいたずらしようとしたところを、お兄ちゃんが助けてくれたんです』
あのときのことは、今でもはっきりと覚えている。カッターを手にし、目をらんらんと光らせたお兄ちゃんと、ひきつったような笑みを浮かべる男の姿。
お兄ちゃんは十歳くらいだったかな。お母さんの留守中にやってきた男に、小さかった私は不用意に家の扉を開けてしまった。
はじめのうちはお母さんはいつ帰ってくるのかとか、お菓子を食べないかなんて言っていた男の態度が突然に変わった。いきなり距離を詰めてきたかと思うと、にやにやした笑いを浮かべ、私に顔を近づけててきた。
突然のことに動けなくなり、何の抵抗もできない私の服を脱がそうとしたところに、ちょうどお兄ちゃんが帰ってきた。
泣きそうな顔をした私を見て、お兄ちゃんは何が起こっているかを一瞬で察知した。カバンから取り出したカッターを手に、男に向かって突進する。
けれども、しょせんは大人と子ども。力の差にあえなく反撃を喰らって、壁にたたきつけられた。
そのとき、手に持っていたカッターで、お兄ちゃんは自分の頬をざっくり切ってしまった。
だらだらと頬から流れる血で顔を真っ赤にしても、お兄ちゃんは泣かなかった。私の前に立って、驚く男をにらみつづけていた。
そのとき負った傷は深くて、お兄ちゃんの顔にはひきつれのようなあとが今でも残る。
何度も何度も謝る私に、お兄ちゃんは気にするなよと言った。
お前のことは、俺が守るもん。小さいくせに、そうカッコつけた。
それなのに、どうして今はこんなふうになってしまったんだろう。
お兄ちゃんは変わった。お母さんに捨てられてから? それより、ずっと前から?
わからない……。
けれど、今でも、この世界で私のことを一番に思ってくれるのはお兄ちゃんだと思う。
でも、私を一番に嫌っているのもお兄ちゃんだ。
ほんの一週間前、お兄ちゃんは私にこう叫んだ。
――出てけよ、このひきこもり!
その目を、私は少しの間も見てはいられなかった。
私だって、このままでいいとは思わない。学校にだって行かなくちゃと思う。
けれど、どうしても、それができなくて、苦しくて苦しくてたまらなくて、正論ばかりを口にするお兄ちゃんを強く強く呪ってしまう。
今この世界で、私たち兄妹はお互いに思いあって、憎しみあっている。
『どうしたらいいかわからないな、もう……』
『病んだ?』
『怒』
一語送ると、一度返信が止まった。
それから、かなり長い時間があって、こんなレスポンスが戻ってきた。
『ましろちゃん、しんらんさまって知ってる?』
『え、と……、地元のお祭りかなんかの神さまでしたっけ?』
『違う。私たちを救ってくれる神さまだよ』
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