三話④

「今、外に出れる?」

 連絡もなく玉森が訪ねてきたのは、尾形家に忍び込んだ数日後のことだった。インターホンの呼び鈴に応じ、玄関の戸を開けると、そこにはひどく思いつめた顔をした玉森が立っていた。

「別にいいけれど……」

 そのまま玉森に連れられ、近くの公園まで赴いた。缶ジュースを渡され、木陰のベンチに座るも、玉森はじっと黙っていた。

「ごめんね……」

 俺も何も言わず、視線をただ遠くに向けていると、ぽつりと玉森が言った。

「……何が?」

「いろいろだよ」

 それは自分の正体を口にしなかったことだろうか。それとも、ことのあらましをだいたい知っていながら、ましろが卵になることを防げなかったことを言っているのか。仮に、そうだとしても、それが玉森のせいだと責める気にはならなかった。

「あのさ、俺も聞いていいか」

「……うん、何?」

「前に電話したときも思ったけど、玉森、方言抜けてないか?」

 あ、と玉森が口を押さえた。いくら地元の人間でも、あんなにも方言を丸出して話をするやつなんてめったにいない。

「あれ、やっぱりキャラつくってたの?」

「……そうだよ」

 こんなときにとでも言いたげな、少しばつの悪そうな表情で玉森が返事をする。

「ブルーハーツ時代のヒロトさんのまね」

「よっぽど好きなんだな」

「そうだよ。私もあの人みたいになりたいから」

 そこまで口にしたところで、玉森は話を元に戻した。

「私もどうしたらいいかなんて、はっきり言えないけどさ……、妹さんやほかのひきこもりの人も卵になったままなんてよくないと思う」

 午後の夏の公園に、汗をひかせる涼しい風が吹きぬけた。強い風に木々の葉が揺られ、池で泳ぐ魚のような影を地面に落とす。

「尾形さんは市女先輩のことを殺せなんて言ったけど、絶対に、そうしなくちゃいけないわけじゃないよ」

「…………」

「話せば、そう、話せば先輩だって絶対にわかってくれる。妹さんのこと、元に戻してくれるよ」

「そう、かな」

「そうだよ。それに、妹さんが元に戻ったら、私もさ、なんでも手伝うよ」

 立ちあがり、やにわに活気づいた玉森が俺の手をとった。

「いきなり学校に行けるようになるとか、ひきこもりが治るとかすぐにうまくいくわけないとは思うよ」

 玉森の言葉に嘘はないと思ったし、誠実なやさしさも感じられた。

「少しずつでもいいじゃん。よくなるよ、きっとだんだんよくなる。うん、ヒロトさん、マーシーさんの曲聴けば、浅宮も妹さんも絶対元気になるよ!」

「……いろいろ心配かけて、悪いな」

「別にいいって」

 俺を励ますと、玉森は公園から帰っていった。その途中、玉森は何度も何度も俺のほうを振り返り見てくれた。

 ――でも、ましろや方丈はそれを望んでいるのか。

 その姿をぼんやり手を振りながら、俺は考えていた。

 明るい言葉で、俺を励ましてくれた玉森。やさしい玉森に、内心の疑問を口に出すことはできなかった。

 これは当人だけの問題ではない。あの安藤の姉はどうだ? ひきこもりの弟が卵から元の姿に戻ることを喜ぶだろうか。

 ……わからない。

 自ら望んでそうなったましろが元に戻りたがるとは思えない。けれども、玉森が言ったように、このままでいいとは俺も思えない。

「ましろ……」

 家に帰ると、袋から取り出し、卵になったましろに言葉をかける。もちろん、返事をするわけでも、内側から何かの反応を見せてくれるわけでもない。

「これでよかったのか、お前……」

 それがわかっていながらも、問いかけは止まらなかった。自身が手紙に記していたように、ましろがひきこもりから立ち直る糸口は見えなかった。

 このまま何年も、もしかすると、何十年もましろが部屋にこもりつづけていたら、俺はどうしていただろう。

「俺たち、本当にあのままじゃだめになっていたのかな……」

 両の手のひらに卵をのせ、胸のなかで抱きしめる。

 俺たち……、いや、俺はどこかで、何かを決定的に間違えてしまった。

 ましろに対して、厳しい態度をとらなければよかった。金や時間の問題をおいて、ゆっくりとましろのことを見守る方法があったんじゃないのか。

 先輩じゃない、もっと別の誰かに助けを求めていれば、どうなっていただろう。

 例えば、ひきこもりの自助グループに、俺自身が参加していたらと今さらながらに思う。

 でも、自分たちの事情を深く話すことが、母親が捨てられたなんてことを口にしたくなくて、そういう会に顔を出したくはなかった。

 軽蔑や必要以上の同情を受けることを恐れていた。誰かに助けを求めることが少しも恥ずかしくはないと、少し前の俺は思えなかった。

「俺も疲れたよ……」

 卵になったましろに小さくつぶやく。

 こうなったのは俺のせいなんだ。そう自覚するたび、灰が積もるように、心には罪の意識が重なっていく。

「もしもし……」

 しばらくの間、悔恨の情に浸っていたあと、俺は電話をとった。自慰のように、いつまでも後悔だけをしていられないと、心の内では一つの決意が形をつくりはじめていた。

「……浅宮くんか?」

 電話の相手は尾形秀治。あの日、聞かれたことの答えを告げるために、電話をかけた。

「決心してくれたのか?」

「えぇ……」

「いつがいい……?」

「それなら……」

 俺は決断しなければならなかった。

 これからのこと、ましろのこと、先輩のこと、そして自分自身のことを……。

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