二話③

「来てもらって、ありがとう」

「いえ、そんなことないっす」

 ましろが姿を消してから、二日目。ましろが中学一年のとき、同じクラスだった戸部さんと、ショッピングモールのなかにある喫茶店で顔を合わせていた。

「それより、マジっすか? ましろんいなくなったって」

「……本当だよ」

 寝違えにこわばった首筋を伸ばしながら、返事をする。

 ……今朝の寝覚めは最悪だった。布団ではなく、畳の上で寝てしまったことで、体からは十分に疲れはとれていない。寝違えまでしたために、首を少し動かすだけでも、ずきずきとした痛みが走る。

 しかも、寝ている間に、ひどく嫌な夢でも見てしまったかのような、不穏な気持ちで、今でも心がざわついている。

「聞きたいことあるって、そういうことだったんすね。デートの誘いかと思いましたよ」

「よく言う……」

「ところで、ここってお兄さんのおごりですか」

 うん、と返事をする前に、戸部さんがにやりと笑顔を浮かべた。

「じゃあ、ごちそうになりますんで」

 そう言うが早いか、戸部さんは椅子から立ちあがり、店のカウンターに向かった。

 いい性格してる。悪い子ではないけれど、この性格ではましろとは馬が合わなかっただろう。

 一年生のとき、戸部さんはましろと同じクラスで、学校からの連絡や課題などを家に届けてくれていて、そのときに、俺も彼女と顔見知りになっていた。

 ましろと同い年だというのに、彼女はずいぶんとさばけた、物怖じしない性格で、夏休みということもあってか、中学生にしてはかなり派手な格好をしている。

「今さらに思われるかもしれないけどさ、ましろって、学校ではどんな様子だった?」

 席に戻ってきた戸部さんに、早速問いかけをすると、

「……まぁ、変なやつ」

 わずかな沈黙のあとに、そんな言葉が返ってきた。

「どういう意味で?」

「沈んでたっす。教室とか保健室とかどこでも」

「沈んでる? 浮いてるじゃなくて」

「そっすね。なんて言えばいいかなー……」

 そこで言葉を止め、戸部さんはアイスコーヒーを口に含んだ。

「まだ教室にいたころだから、一年のはじめのころかな。なんかもう、一人だけずっと息をひそめてるみたいな」

 彼女の言いたいことはなんとなくわかった。他人の目につかないように、ましろは自分の存在を隠すようにしていたということだろう。

「そんなんだと、やっぱり友達とかいないか」

「家に泊めてくれるようなやつは、まぁ、いないっしょ」

「嫌われてなかったかな、クラスの子たちに」

「……微妙っすね」

 今さら心配になって聞くと、短い言葉が返ってきた。

「そういう子もいた?」

「ましろん、人に合わせるの下手だったから。なんつーか、二つくらい違うんすよ、人と生きるてるラインが」

「…………」

「しかも、顔面偏差値はバリ高だったんで、反感かな、まー、こそこそ言うやつもいたけど、いじめっていうほどでもなかったっすよ」

「そっか……」

「ちなみにお兄さんも偏差値高めっすよ。……すべり止めの学校以上はあるって思ってくれて大丈夫っす」

「それ、褒めてる?」

「褒めてますよ。私のすべり止めは偏差値六〇以上ですから」

「なんだ、そりゃ……」

 戸部さんの冗談への返しのなかに、そっとため息を隠す。

 そういうことが積もり積もって、ましろはだんだんと教室に通えなくなったのか。確かに、ましろは周りのことを気にしすぎる質だった。でも、たかだか小さな嫌がらせくらいのことじゃないかとも思ってしまう。

「もう中学生なんだからさ、そんなふうじゃいられないって、あいつわかってなかったんだよ」

「お兄さん」

 そんな思いから、愚痴のような言葉を口にしてしまった俺を、戸部さんがまっすぐに見すえた。彼女のひどく力のこもった目――目元のメイクのせいか――に少したじろいでしまう。

「あの子だって、ただ弱いとか甘かったとかじゃないと思いますよ」

「どういうこと?」

 思えば、他人がましろのことをどう思っているかをはっきり聞いたことはなかった。しかも、かばうような言葉に、幾分か前のめりになってしまう。

「うちはましろん嫌いじゃなかったです」

「…………」

「ましろんが教室じゃなくて、保健室に登校するようになって、給食運んでたんです。それくらいうちには何でもなかったんすけどね、ましろん、すごく悪そうにしてた」

「…………」

「目は合わせないけど、いつも小さくありがとって言ってくれたから。そーいうのは普通にできる子だったから」

「そっか……」

「ましろんだって、何も感じてなかったわけじゃないと思うっすよ」

 戸部さんは俺が思っていた以上に、ましろのことをよく見ていてくれた。そして、俺は自分で思っていた以上に、あいつをすが目で見ていたことを思い知らされた。

「ところでさ、ましろと付き合ってるような男子とかいた?」

 もう少しそのことを聞きたいとは思いつつも、話を変えた。ましろが自分の意志で家から出ていったとして、どこに身を寄せるのか。

 もっともありえそうな答えが、男の元だと思っていた。

 もちろん、あいつ……、俺たちの母親がましろを連れて行ったということも頭に浮かんだけれど、俺は即座にその考えを頭から切り捨てた。俺たちの目の前から姿を消して、それなりの時間が経つけれど、あいつから連絡がきたことなど、今まで一回もなかった。

「いやー、ないっすよ、たぶん」

 たぶんと言うわりに、戸部さんは即座に断定した。確かに、俺の知る限りでも、ましろに付き合っているような男がいるとは思えなかった。

「じゃあ、ツイッターとかなんかやってたかわかる?」

「いや、さすがにそこまでは」

 ましろがSNSをやっていたかは、俺も知らない。けれども、アカウントなどすぐに作れるし、ネットを介せば、男と知り合う方法などはいくらでもある。

 仮にましろがツイッターやインスタグラムのアカウントを持っていて、そこで神待ち――住居の提供に重きを置いた、要は援助交際――の相手を募っていた可能性だって、考えたくはないけれど、ありえなくはない。

 『#JC2、#ひきこもり、#神待ち』、なんてふうにタグをつけてましろがツイートをし、それを見た誰かがダイレクトメールを送る。

 はれて両者の合意がなれば、ましろは住環境を手に入れ、男はかわりにその体を好きにできる。実際に、そういうニュースを何度も目にしたことがある。

 欲に血迷った男が東京からやってきて、ましろを家に連れ帰った可能性だって否めないし、甘い言葉に騙されて、自分から妙な事件に巻き込まれた可能性だってある。

 そう考えると、悪寒で体がぞわぞわとする。ひきこもりではないけれど、死にたいという気持ちを持つ女の子を狙った大量殺人だって起こったことも過去にはあるのだから……。

 思いつくままに話を聞いていき、一時間ほど経ったところで、席を立つ。

「ども、あざっす」

「こっちこそありがと。いろいろ参考になった」

「見つかるっすよ、ましろん」

 この子もやさしい。にっと笑って励ましてくれた戸部さんと店前で別れ、家に戻る。

 その行方を示す手がかりを探すため、少しのためらいを覚えつつも、ましろの部屋に入った。

 ほとんどこもりきりになっていたわりには、部屋はすっきりとしている。荷物や着た服、ごみなどで、足の踏み場もないほどに散らかっていることはない。

 ひきこもりだった妹の部屋らしいのは、置かれたベッドにはっきりと人の寝姿の跡がついている――部屋にいる大半の時間、ここに寝転がっていたのだろう――ことと、壁にかけっぱなしになった昨年のカレンダーくらい。

 いつも閉めきりだった部屋、ひきこもりの妹がいなくなったことで、その戸が開け放しになるなんてひどい皮肉だ。

 それにしても、ましろの部屋に足を踏み入れるのは久しぶりのことだった。最後に、この部屋に入ったのは大喧嘩をした一月ほど前。

 まずは勉強机に向かい、教科書の類に目をやる。一番手がかりにならなそうなものから、一つずつ潰していこうと、ためしに、棚の端にある数学の教科書をとってみると、

「あっ……」

 驚きに、小さな声がもれた。教科書には罫線が引かれたり書き込みがあったりと、勉強をしたあとが残っていた。

 学校に行っていない間も、ましろはこの部屋で、ただぼんやりと時を過ごしていたわけではなかったらしい。

「あいつなりに、焦ってたんかな……」

 それなら、もっと俺に何か話してくれてもよかったのに。そんな後悔にとらわれて、手が止まりそうになるのをぐっとこらえる。今は感傷に浸っていても仕方がない。行動をするときだと、気持ちを無理やりに切り替える。

 順々に教科書を手にとっていくも、ましろの行方を示すようなものは、やはり見つからなかった、次に机の引き出しを開けていくと、A5サイズのノートが見つかった。

「日記……、とも言えないな、これは」

 それはほとんど雑記帳に近い使われ方をしていた。小さい字で、日付と殴り書きのような二、三行の言葉が記されている。

 目を凝らして見ても、文字が乱雑過ぎて、何が書かれているほとんどかわからない。おそらく、ましろ本人もあとから読み返す気持ちはなかったのかもしれない。このノートは行動の記録というよりも、気持ちの吐き出し場所として使われているようだった。

 それでもこれは重要な手がかりだと、一生懸命その文字を追っていくと、いくつかの内容を読みとることができた。

『かったるい、疲れた、めんどうくさい』

『毎日おしつぶされそう』

『私は世界に向いていないなぁ……』

 短く、ほとんどが文章にもなっていない……、いや、だからこそ、ましろの気持ちが濃縮された言葉の数々にため息がもれる。

 そのまま、ページをめくっていくと、見開きいっぱいに『死ね』という文字が書かれていた。

「…………」

 書かれた時期はちょうど大喧嘩をした一月前。その感情が向けられた相手は……、もちろん俺だ。

 好かれているとは思ってもいなかったけれど、こうもむき出しの感情を目の当たりにすると、ショックを受ける。

 そのあとも、俺に対する数々の罵詈雑言をノートに見つけた。偽善者、バカ、無神経、頑固、卑怯、格好つけ、消えろ、わからずや、いなくなれ……。

 これを見るに、あいつは俺のことを嫌っているどころか、憎んですらいたんだろう。ときには、死ねばいいとさえ思っていたのだ。

「あーぁ……」

 無意識のうちに、ほおの古傷に触れていた。親がわりと思って、俺なりに一生懸命になってやってきた結果がこれなのか。

 自らを嘲笑したくも、慰めたくもなるような気持ちになりながら、ましろのことをどうでもいいと思いきることができない。

 まともな親がいなかったからか、それともこんな状況に陥っているからなのか、俺たち兄妹の絆は他人の家庭のそれよりもずっと強く、そしてねじれている。

 こうして、ましろの本心を知った今だって、容易にそれを断ち切ってしまおうとは思えない。

 沈んだ気持ちのままに、ページをめくっていると、今度は妙な記述に行き当たった。

『たまひめに、不思議な話を聞く』

 それは今から半年以上前、昨年の十二月ごろに書かれたものだった。

 たまひめというのは誰だ。そんなあだ名を持つ学校の生徒か、それともネットか何かを介してできた知り合いか。

 このころにはもうほとんど学校に通っていなかったけれど、ましろも部屋から一歩も出なかったわけじゃない。

 夜中にはコンビニに出かけたり、散歩に行ったりしていたこともあったから、話をするくらいの知り合いがいてもおかしくはない。

 いったい、どんなやつだろう。ただ、『ひめ』というからには、女だろうか、また、その言葉で俺が思いつくのは、この町一番の名家のお嬢様である市女先輩だ。

 ――いや、そんなわけはない。

 頭を振って、即座にその考えを否定する。ましろと先輩が知り合いであるわけはないし、もしそうならば、昨日の時点で、先輩がそう教えてくれたはずだ。

「……?」

 また、同じページの隅には卵の絵が描かれ、その隣には『しんらんさま 卵に?』と記されていた。

 これも、どういう意味だろう。その部分にじっと目を落とし、考えを巡らせる。

 ひきこもっていたとはいえ、ましろだってこの町の住民だ。どこかでしんらんさまのことを知ったとしても少しも不思議はない。ノートにそのことを記したのだって、別に深い意味はなく、ただなんとなく、知ったことを書いたのかもしれない。

 でも、しんらんさまが『卵に』というのはどういうことだ?

 しんらんさまは市女先輩の実家である尾形家でまつっている神さまの名前だ。そのしんらんさまは卵の神さまだと市女先輩は言っていた。

 加えて言えば、たまひめとやらが、しんらんさまにも何か関係があるのか……?

 意味がわからないからこそ、その言葉が心に強いひっかかりを残す。

 もしかして、このたまひめとかいうやつが、ましろにしんらんさまのことを教えたのか。すると、そいつの元に、ましろもいるんじゃないか。

 短絡的、飛躍的な直感かもしれないけれど、絶対にありえないと否定しきることもできない。

「ふぅ……」

 ひきつづき、ましろのノートを調べてみたけれど、たまひめというやつの正体も、ほかに手がかりらしきことは見つからなかった。

 ひとまずノートを閉じ、手がかりの目標を変える。その本命はやはり携帯電話だった。誰とやりとりしていたかがわかれば、どこに行ったかも芋づる式に判明するかもしれない。

「ないか……」

 期待を胸に、次々と開けていった机の引き出しのなかに携帯はなかった。部屋の隅やベッドの下、収納のなかにないかと探しまわるも同じだった。

 部屋から出ていったときに、いっしょに持っていってしまったのか……。それもそうだ。今時、携帯を持たずに出かけるやつなんていない。

 いや、仮にましろの携帯が見つかったとしても、そのロックを簡単には解除することもできなかっただろう。

 結局、今の俺にできることはアナログな方法しかないということだ。携帯を探すことをあきらめ、部屋のたんすや本棚に目を向ける。

 たんすのなかの服や下着は減っているようには見えないけれど、それがここから遠く離れた場所に行ったことの証明にもならなかった。部屋から持っていかずとも、下着や服の類など量販店やコンビニで、いくらでもそろえることができる。

 たんすのなかを見おえると、次に本棚の前に立った。カラーボックス式の棚にはましろが集めた漫画が隙間なく並んでいる。

「あいつ、漫画好きだったからな……」

 そんなことをつぶやきながら、壁に貼られた『ベルセルク』のポスターに目をやる。

 東京で暮らしていたころも、ましろは漫画をこつこつと買い集めていたし、ひきこもったあとでも、通販の荷物が届いたこともあった。

「懐かしいな、これ……」

 本棚のなかに、小さいころ、俺が妹の誕生日に買ってやった漫画があった。小学生のときにプレゼントしたものをばあちゃんの家まで持ってきている。そのことに、こんな状況にもかかわらず、胸がつまった。

 ――俺たちだって、昔は仲良かったんだよ。

 俺とましろがまだ小学生のときに流行っていた漫画。つい手が伸び、ページをめくると、なかから一枚の紙片が落ちてきた。

「……あぁ」

 折りたたまれた紙片を開いて見たとき、俺の口からうめきのような声がもれた。

 その間に挟まっていたのは、この町にあるひきこもりの支援団体のチラシだった。

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