二話⑭

 再び消えたましろの行き先、そんなのは決まっていた。方丈たまきの元だ。それ以外の場所は考えられない。

 目に映る空はどんよりとした雲に覆われ、今にも大粒の雨が降りださんばかりだった。薄暗い道をたどりながら、ましろが今、どうなっているのか想像するだけも怖かった。

 だって、そうじゃないか。ましろは自分の意志で、また家から出ていったのだから!

 急ごうと思いながらも、足が進まない。鈍い足どりのうちに、ぽつぽつとした雨粒が体に当たりはじめ、方丈の家にたどり着いたときには、地面をうがつような大雨に変わっていた。 

 息を吸い込めば、体に染みこみそうな陰鬱な雰囲気が満ちる団地。悪天候と相まって、普段よりもずっと濃い影が満ちた廊下には、ざぁざぁぶりの雨粒が風にのって入り込む。

「…………」

 おとないを入れることなく、方丈の家のドアを開く。初めて訪れたときと同じく、奥の部屋からはゲーム画面の白い光がもれていた。

「来たんだね」

 居間に足を踏み入れた俺に、方丈はゲームの画面から顔を離さずに言った。

「ましろは?」

 問いかけに返事をせず、方丈は無言で立ちあがった。そうして、俺に近づくと、懐から一つの卵を差し出した。

 その瞬間、頭がまっしろになった。床に膝をつき、卵となってしまったましろを胸に抱く。

 これは夢だ、何かの間違いだと信じたい気持ちも、手にした感触に否定される。

 ――やっぱり、ましろは卵にされていた。

 安藤の家で見たものより、それは小さく、白く透き通るような色とやわさを持っていた。いかにももろい卵を手に、しばらくの間、その場から動くこともできなくなる。

「……戻してくれ」

「どうして?」

 ようやっと口にでた声に、方丈は小首をかしげた、

「どうしてだって!」

 顔をあげて、いつものように白頭巾を被った方丈をにらみつける。

「こんなのおかしいだろ……」

 刺すようにと向けた視線も言葉も、白頭巾に阻まれ、方丈にはまるで届かない。

「まともじゃない!」

「相変わらずだね、浅宮くんは……」

 少しあきれたように、方丈が言った。

「わかっていると思うけど、ましろちゃんは自分からたまごもりをしたんだよ」

「違う……。お前がましろのことをそそのかして、口車にのせたんだ」

 こんなことが救いになるもんか。俺に返事をするかわりに、方丈はもう一度、俺に手を伸ばしてきた。

「これは……?」

 方丈が持っていたのは一通の手紙だった。

「ましろちゃんから」

 ひったくるようにして、方丈の手から手紙を取り、なかを開く。目に入ったのは見慣れた字。それは正真正銘、ましろが書いたものだった。

 そこには、ましろの気持ちが切々とした調子で書かれていた。そう長くはない手紙を何度も何度も読み返したところで、確信した。

 ましろは本当に自ら望んで、卵となったんだ。

「嘘じゃないでしょ」

 うずくまったままの俺に、方丈が念押しするように言う。

「ましろちゃんは、自分から卵になったんだよ」

「…………」

「ねぇ、浅宮くん」

 黙る俺に、方丈は言葉を止めず、語りつづける。

「浅宮くんはどうしてそんなに普通だとか、まともだなんてことにこだわるの?」

「…………」

「浅宮くんって、子どものころ、どんな子だったの?」

「子どものころ?」

「そう。浅宮くんはどんな家で育ったの? そう、お母さんはどんな人だった?」

 あの夜の集会のように、方丈は俺に過去の告白を求めてきた。促されるがままに、俺は胸にたまっていたものを吐き出してしまう。

「俺の家は……」

 普通の家じゃなかった。

 世間一般の家と俺の家がずいぶんと違うことに気がついたのは、わりと早かった。

 世の中では毎日親が食事の用意をしてくれたり、家の掃除や衣服の洗濯をしてくれたりするものだとは知らなかった。

 俺たちの母親は日付も変わったころ、酔っぱらって帰ってきて、ときには三日も家を空けることもざらだったし、まるで服をとっかえひっかえするように男を変えた。

 俺たちの母親はいわゆる水商売を仕事にしていた。いや、それが問題だって言いたいんじゃ

 ない。どんな仕事をしていようが、まともに生きている人だって、くずだっている。

 ただ、あいつは人の親になりきっていなかった。

 欲しいものは何でも買ってもらえたし、金にも不都合はしなかった。加えて言えば、手をあげられることもなかった。

 でも、それは母親が俺たちを愛していない証拠だったと思う。俺たちと、母親とのつながりは毎朝机に置かれた金だった。ものや金を与えておけば十分で、自分と男に一番の関心が向いていたんだ。

 だって、俺たちは箸の持ち方もきちんと教わったことなかった。飯を食うときに、ひじをついちゃいけないってことだって、行儀悪―いって、クラスのやつらにからかわれて初めて知ったんだ。

 ――そんなんじゃあ、あの子たち、まともには育ちませんよ。

 あるとき、家庭訪問にきた担任教師に言われた言葉だ。

 そいつの名前はもう忘れてしまったけれど、そのせりふと、散らかった部屋に向けられた軽蔑のまなざしだけはいやにはっきりと覚えている。

 まともじゃない。その言葉は俺への呪いなった。

 いや、実際、そうだった。ほとんど着た切りになったよれよれの服を着て、遅刻も多くて、勉強もろくにできなかった。それに、風呂にだって毎日入っていなかったから、体からは臭いもしていたと思う。

 教室でも異物のように扱われて、いじめられかけたこともある。小さいながらに悪ノリするやつっているだろう。くさいだの貧乏だの水商売の子――たぶん、これは親が教えたんだな――だの俺に言ってきたやつもいてさ。

 方丈に気性が荒いって言われたことあるけれど、本当だよ。気がついたら、そいつのことをぶん殴って、床に押し倒してた。

 そういうことは何度もあった。学年が上のやつにもちょっかいを出されたこともあったけれど、売られた喧嘩は全部買ったし、多人数が相手でも勝ってきた。

 そんな俺とは違って、ましろは昔から人の目を気にする質だった。小学校も行ったり行かなかったりだったし、友達もいなかった。

 友達がいなかったのは、今から思えば、俺のせいかもしれない。あいつには、すぐ人と喧嘩するような兄がいるって、それで敬遠されたのかもしれないな……。

 そんな俺たち兄妹に、あいつは何もしてくれなかった。

 こんなんじゃあだめだって、子ども心にも感じたよ。

 ――おかあさん、ちゃんと部屋の掃除してよ。僕たちの服とかも洗って。

 そう頼んでも、あいつは携帯を見たまま、面倒くさそうに手を振った。それでも、訴えをつづけると、少しは俺たちの世話をしてくれた。

 けれども、それは一月もつづかなかった。

 仕方なしに、見よう見まねで家事をするようになった。冷凍食品も全自動の洗濯機もある今の時代だからできたことかな……。

 まぁ、最初はめちゃくちゃだったよ。洗濯機にどれくらいの洗剤を入れたらいいかもわからなかったし、掃除機のかけ方やごみの捨て方だってわからなかった……。

 それでも、生活は少しずつ変わっていった。

 朝はきちんと起きるようになったし、夜ふかしもしないで、寝るようになった。食べたいものを、好きなときに好きなだけ食べることをやめた。

 毎日風呂にも入って、学校にも遅刻しないで通うようになったし、家で勉強をするようにもなった。

 俺はさ、そのころからましろの世話をしてたんだ。あいつの飯をつくっていたのも――はじめのうちは冷凍食品やカップ麺ばかりだったけれど――俺なんだ。

 それでもやっぱり、あのときの教師の言葉とまなざしが、今でも俺の頭からはこびりついて離れない。

 まともでいたい。人に馬鹿にされたくない。

 母親の蒸発も、そう思う理由の一つだ。結局、あいつは何も変わらなかったし、それどころか、俺が中学三年生のときに、自ら姿を消してしまった。

 はじめのうちはよくあることだと思っていた。

 あいつは新しい男ができるたび、そいつの家に転がりこんだり、旅行に行ったりと、俺たち兄妹を置いて長く家を空けることがあったから。

 けれども、それが一カ月もつづいたときは、さすがにおかしいと思った。

 ――もしかしたら、俺たち捨てられたのか?

 母親の携帯に連絡したとき、『おかけになった番号は……』と音声が流れてきたときは、目の前が暗くなった気がした。

 さすがに、そんなことはないとは思いたかった。そんな映画みたいなことないってさ。

 でも、無情に過ぎていく日々がそれを証明した。

 中学にあがる前から、ましろの不登校は悪化していたから、このままの状態でいることに強い不安があった。

 ほら、中学校って、小学校とは雰囲気ががらっと変わるだろ。学年のクラスの数が増えたり、部活に入らなくちゃいけなかったり、急に先輩後輩の人間関係ができたりさ。

 そんなましろを、これ以上不安な状況にも置いていたくなかった。これからどうしたらいいか、誰に連絡をすればいいのか迷った末に、ほとんど会ったことのないばあちゃんの家に電話をした。

 それから紆余曲折あって、俺と妹はばあちゃんの元で暮らすことになった。

 ばあちゃんは俺たちを引き取ってくれたけれど、それは親族には扶養義務ってものがあると法律で決まっていたからだ。

 愛情だとか親族の絆だとか、そんなものは、俺たちとばあちゃんの間にはなかった。

 岡山にやって来た日、俺はましろに言った。

 俺たちはあんなふうにはならないようにしよう、まともに生きようって……。

 いや、普通なんてものが、本当は中身のない、あいまいなものだっていうことは頭ではわかっている。けれども、その思いは俺の頭に染みついて、もう剥がれ落ちなくなっていた。

「そっか……」

 俺の話を聞きおえた方丈が、小さくうなずいた。

 ここまで詳細に自身の過去を他人に打ち明けたのは、初めてのことだった。長い話を一気に語りきった疲れと同時に、奇妙な愉悦を心に覚えていた。

 自分の抱えていたものをあらわにし、他人の同情を買おうとする心情の現われか、それとも、犬のように人前で腹をさらけ出し、自分の存在を投げ出してしまうことの心地よさか。

「浅宮くんがまともだとか普通だってことにこだわるのは、わかったよ」

「…………」

「だから、ましろちゃんを追いつめたんだね」

「追いつめた?」

 非難の言葉に顔をあがり、どういう意味だと方丈に目を向ける。

「そうだよ。ましろちゃんがひきこもったままなのは、本人の性格もあるかもしれないけど、浅宮くんがああしろこうしろって、自分の考えばかりをましろちゃんに押しつけたからでしょう」

「それはましろのことを思って……」

「そのことがプレッシャーになったって、ましろちゃんから聞いたよ」

「…………」

「でも、ましろちゃんのひきこもりをやめさせようとしたのは、それだけじゃないでしょ」

 言葉を途切れ途切れにする俺とは反対に、方丈は普段とはうって変わって、次々に問いの矢を放っていく。

「浅宮くん、心の底ではましろちゃんのことをどう思っていた?」

「どうって……」

「大切な可愛い妹? だから、ひきこもりから立ち直ってほしかった? ……ううん、それだけじゃないよね」

「…………」

「心の奥では……」

 一度、言葉を止めたあと、方丈が一口につづきを言った。

「ひきこもりのましろちゃんが嫌だったでしょう?」

「そんなわけ……」

「嘘」

 と、俺の反論を、方丈が一言でさえぎった。

「いいんだよ、本当のことを言っても」

「…………」

「ましろちゃんがこれからもずっと部屋にひきこもってたら、ねぇ、浅宮くん、どうしてた?」

「…………」

「捨てたんじゃない、ましろちゃんのことを? ……お母さんがそうしたみたいにね」

「そんな、……そんなことなんてしない」

 俺たちはこの世界で二人きりの兄妹なんだ。そう思いながらも、どうしてか言葉がつづかない。

「本当に、そう言いきれる?」

 そんな俺の心を根こそぎえぐり出すように、方丈は問いを発しつづける。

 その姿はゲーム好きの同級生ではなく、まさしく、金光しんらん教のたまひめとしてのものだった。

「浅宮くん、ひきこもりのこと嫌がっていたよね。まともじゃない、普通じゃないって。本当はさ、私のことも見下してたんじゃない? ……自分よりひどい、まともじゃない人間がいるって。それで安心できた?」

「違う……、違う! そんなこと……」

「ひきこもったましろちゃんのことだって恥ずかしかった? どうして自分の妹がまわりの子

 たちと同じじゃないんだって」

 方丈の言葉を否定する気はなかった。実際、ましろがひきこもりだということを市女先輩や玉森にも言いたくはなかった。

「これから先もましろちゃんがひきこもったままじゃ、自分もまともな人生を送れないって思った?」

 とうとう核心をつかれてしまった。

 俺にとってましろは大切な家族であると同時に、だからこそ、容易には手離せない重荷でもあった。

「ましろちゃん自身のためじゃなく、本音では自分のためにひきこもりをやめてほしかった?」

「…………」

「ましろちゃんのこと、大好きで、でも、大嫌いだったでしょう。ましろちゃんを守ろうとしてできたのが、その傷なんだよね」

「……やめてくれ」

 方丈の言葉をもう聞きたくはない。耳をふさいで、体を小さく縮こめる。

「ひきこもりなんて、浅宮くんふうに言えば、まともじゃなくなったから嫌いになったの?」 

「頼むから……」

「それとも、お母さんに似てるから? 私も写真見せてもらってびっくりしたよ。……ましろちゃん、お母さんにそっくりだったね」

 俺の懇願も聞かず、それでも、方丈は言葉を発しつづける。

「お母さんの影をましろちゃんに見たの?」

「…………」

「違うかな? でも、ましろちゃんほどじゃないけれど、浅宮くんもお母さんに似てるよ。浅宮くんもお母さんみたいに、ましろちゃんを捨てたかった?」

 俺を責めさいなむ言葉に、いつの間にか体は完全に丸まっていた。ただただ、方丈の言葉を受けつづける姿は、あの日に見たひきこもりと同じものになっていた。

「俺は……」

 ましろのためを思って、あえて厳しい言葉をかけたり、簡単に甘い態度を見せたりはしなかった。方丈の言うとおり、そのことがましろにとって大きな苦しみになっていたんだ。

 ましろのため。そう、それに嘘はない。人にあなどられないよう、強くならなきゃと思っていた。

 けれども、心の奥では俺自身のために、ましろのひきこもりをやめさせなくてはという思いがぐらぐらとにえたぎっていた。

 家族がひきこもりだなんて、そんなまともじゃないこと嫌でたまらなかった。

 ましろがひきこもりから、そう簡単に立ち直るとは思えなかった。

 時が問題を解決してくれるとは安易には信じられなかった。

 このまま、ましろのひきこもりがつづけば、これから先、待っているのは一つの地獄だとわかっていた。

 仮に、十年、二十年後にましろがひきこもりから立ち直ったとしても、学歴もなく、一度も働いたことのない人間に何ができるのだろう?

 金があればまだ心配は薄れたかもしれないけれど、ばあちゃんからも出て行けと言われた。身内のほかに、頼れる人間がいるのかもわからない。

 俺は母親とは違う。家族を捨てるなんてひどいことはしないと思いたかった。

 でも、だからこそ、ましろをうとましく感じてもいた。

 容易に先が見通せない状況、ましろを置いて、あいつのように、俺もどこかに逃げてしまいたかった。

 だから、大喧嘩をしたときに、俺はましろに出ていけと叫んだ。本当にこのまま、ましろが消えてしまえばいいと思っていた。

 つまり、ましろを苦しめていたのは、俺の自分本位な気持ちにほかならなかった。俺も母親と同じ、自分のことで頭がいっぱいだったんだ。

 そう、全部が俺のせいなんだ。

「……うぅ」

 気づかないうちに、目から涙が出ていた。悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだというように、涙を流すうちに、どんどんと気持ちがたかぶり、息もまともにできないくらいに声をあげていた。

 自己憐憫にわめく自分にも腹が立った。そのために余計に、体の内側で感情が大きく波立つ。

「どうしたら、よかったんだ?」

 ひたすらに涙と鼻水を流し、泣き疲れ、涙も出なくなった果てに、そんな言葉が口をついて出た。

 求めていた。俺を救ってくれる存在を、許してくれるものを、導いてくれる誰かを。

「浅宮くんもさ、たまごもりをしようよ」

 渇望にあえぐ俺の元に近づき、方丈が耳元でやさしくささやきをつづけていく。

「俺も……?」

「怖い? 大丈夫だよ。ましろちゃんだって卵になったし、しんらんさまはとってもやさしいって知ってるでしょ」

 過去を告白し、自身の隠していた思いも暴かれて、泣きつかれて乾いた心に、方丈の言葉が水のように染みこんでくる。

「それに私たちは、幸運なんだよ」

「……幸運?」

「そう。しんらんさまが私たちを助けてくれるんだよ。ほかの場所だったら、ましろちゃんもずっと部屋のなかで苦しんだままだったかもしれないんだよ」

 口にしながら、方丈は子どもにするかのように俺の頭をなでた。

「ましろちゃんは卵になったほうがよかったんだよ」

 どうなのだろう。方丈の言葉の真偽を問う力が、俺にはもう残されていなかった。

「私もそう。……、私もそろそろたまごもりしてもらおうかなぁ」

「…………」

「浅宮くんにとってはどう?」

 繰り返されるその動きに、眠気がさざ波のようにやってくる。

 もうろうとしてきた俺の耳に、方丈の鼻歌が届く。

 それは市女先輩も歌っていたイエローモンキーの『楽園』だった。

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