二話⑬
しんらんさまは日によって、やって来たり来なかったりした。単なる気まぐれか。理由はわからないけれど、そのどちらにせよ、俺の精神は摩耗していく。
夜は眠れずに、昼に体を休めるも、恐れや緊張から十分には眠れず、また将来への不安も日々膨れあがっていく。
「……明日、学校行ってみようかな」
そんなある日のことだった。昼間、二人でゲームをしているときに、ましろがぽつりと言った。
「えっと……」
眠気混じりの弛緩した心に、感情は遅れてやってきた。うれしさ、戸惑い、不安、期待などがないまぜに起こり、頭が固まってしまう。
「聞こえてた?」
「あ、うん、それは」
ましろの前向きな言葉に、わっと叫びだしたくなる一方、あまり喜びをあらわにしては、ましろにプレッシャーを与えてしまうだろうという自制心も働いた。
「明日は登校日で授業もないし、大丈夫かも」
「そっか」
小さくうなずき、俺はわざとなんでもないように言葉をつづけた。
「保健室のほうにか?」
保健室登校といって、教室に行かないかわりに、保健室で過ごすことができる仕組みがある。
「ううん」
と、ましろはコントローラーを動かす手を止めた。そして、俺のほうにちらと顔を向け、たいしたことでもないように言葉をつづけた。
「教室に行ってみようかな」
「大丈夫か」
「やっぱり、無理だと思う?」
いったい、いつの間にそんな心変わりをしたのだろう。驚き、食い気味に発してしまった言葉に、ましろが不安そうな目で問い返した。
「いや……」
それ以上言葉が出てこない。ましろはもうずいぶんと長く教室にすら入れていないのだ。それは難しいではないかと思ったけれど、ましろの意気をくじくことはできなかった。
いや、違う。それ以上に、俺の心のなかで期待の気持ちが風船のようにぱんぱんに膨らんでいて、言葉をつづけることができないでいた。
いったい、ましろに、どんな心変わりがあったのだろう。期待で目が冴えた夜は、幸先もよく――と言っていいのか――しんらんさまが現れることもなかった。
「久しぶりに着た……」
そうして、不安と期待を抱えたまま、朝がやってきた。
言葉どおり、久々に制服に袖を通したましろ。自身も戸惑うような、そわそわとした雰囲気を全身にまとっている。
「ましろ」
「何?」
「ましろは何着ても様になるよな」
「……ばかじゃん」
心のなかのガンバレという気持ちを隠して言った言葉に、少しだけ目を丸くしたあと、ましろが小さくつぶやいた。
「それでさ……、俺も、学校までついていくか?」
「いい。子どもじゃないし」
「わかった。……いってらっしゃい」
「じゃあ」
一言返事をして、ましろは家を出ていった。その後ろ姿を、俺は家の前でじっと見送る。外には夏らしい、明るく、少しばかりきつい日が落ちる。その光が、ましろが着る白いセーラー服に反射して、ひどくきらきらして見える。
その背中が見えなくなったところで、ふぅ、と思いのこもった息が肺の奥から出た。
ましろはうまくやれるだろうか。
HRだけだから、きっと大丈夫だろうという期待と、何事もそううまくはいかもしれないという不安が同時に胸のなかで混ざり合う。
ましろにとって、教室は居心地のよい場所ではない。久々にその姿を見せたとなっては、みなのひそひそ話や陰口の格好の餌食になってしまうかもしれない。
――でも、もしも、ましろがひきこもりから立ち直れたら……。
二人いっしょに暮らす算段もつくのではないか。俺が働いて、なんとかましろを高校まで出す。いや、大学に行きたいと言えば、それだって叶えてやりたい。ましろが奨学金を借りて、俺が返す方法だってあるはずだ。
ひょんなことから、人生が劇的に変わることもある。それに、ましろと東京に戻ってしまえば、しんらんさまだって、さすがにそこまでは追ってこないだろう。
そんな想像――自分でも都合がよいと思う――が次から次へとわいて出て止まらない。気もそぞろになって、檻のなかのクマか何かのように部屋のあちこちを行ったり来たりしていると、携帯がなった。
「あ、お兄さんすか!」
電話をかけてきたのは、戸部さんだった。ずいぶんと慌てた声に、どきりとする。
「大変です! ましろんが学校で吐いて、倒れちゃって」
電話の内容に、とるものもとらず、急ぎ向かった学校の校門で戸部さんが待っていた。
「ども、お兄さん」
「ましろは?」
短く言葉を交わしながら、そのまま学校のなかへと足を踏み入れる。
「今、保健室で寝てるんすけど」
「教室で、何かあった?」
「久しぶりに学校来て、みんないろいろ言ってたらしくて。その……、なかには強めに言ったやつもいるみたいで」
「そっか……」
たどり着いた保健室のベッドに寝るましろの顔は青ざめ、ずいぶんと憔悴しているように見える。気を利かせてくれたのか、戸部さんは俺とましろを二人きりにしてくれた。
――やっぱり、だめだったか。
少しずつ状況がよくなればと思っていたけれど、それは甘い考えだった。
「……あぁ」
無意識のうちに、大きなため息が出た。勝手で、過大な期待をしてしまった分、落胆も大きかった。
もし、もしもだ。ましろがずっとこのままひきこもっていたら、俺はどうなる?
ましろも意を決して登校した分、反動も大きいかもしれない。そのショックで、このまま学校にも行けず、高校にも進学しないで、十年、二十年とひきこもりをつづけたとしたら……。
未来の想像が心を圧迫する。まるで鉛を飲んだかのように、腹の奥も重くなった。
――私も一生、あの子の面倒なんかみていたくなかった。
あの安藤の姉の言葉が耳の奥でよみがえる。
話しを聞く限り、安藤の姉もひきこもりの弟をとても大切にしていた。けれども、そんなあの人でさえも弟が死ねばいいと願うほどに追いつめられ、奇行に走り、その果てに……。
俺たちもそうなるかもしれない。そう、このままでは、二人とも共倒れしてしまう。そうなる前に、俺は……。
「お兄ちゃん……」
暗く、後ろめたい気持ちにとらわれていると、弱々しい声が聞こえた。
はっとし、顔をあげると、薄目を開いたましろがこちらを見ていた。目を覚ましたあとも、その顔色は悪く、形の良い眉も八の字に下がっている。
「具合、どうだ?」
「……ごめんね」
俺の問いかけに答えず、ましろは小声で言った。
――なんてことないよ。
そう笑って応えようとしたけれど、言葉は出ず、頬の古傷がひきつっただけだった。
「…………」
ましろはそのまま何も言わず、俺から顔をそむけた。その姿に何も言うことができず、俺もただ黙っていた。下手な励ましも叱咤の言葉も出なかった。
その夜、これでいったい何度目だろう、しんらんさまがやってきた。
包丁を構え、押し入れの前にじんどる。
ましろは相変わらず、押し入れのなかで、体を丸め、まるで赤ん坊のような姿をしていた。
夜が明けると、部屋に戻って寝た。
疲れていた。しんらんさまのことも、方丈のことも、ましろのことも、俺たちの将来も、もう何も考えたくはなかった。
倒れるようにして、寝床の上に体を横たえる。
そうして、目を覚ましたとき、ましろは再び部屋からその姿を消していた。
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