三話⑦
「ここは……」
市女先輩の指示とおり、自転車を進めたどり着いたのは、いつの日かいっしょに来たあの山だった。自転車を降りると、先輩は見通しのきかない山のなかへ、少しもためらうそぶりも見せずに入っていく。
「先輩!」
「開くん、こっち」
「ちょっと待って!」
携帯のライトをつけて、急いでそのあとを追う。先ほどまで自電車で通ってきた道も暗かったけれども、それは山のなかも同じ。携帯のライトの光量くらいでは、ほんの少し先も見通せず、先輩の背中を見失いそうになってしまう。
「うわっ!」
道が急こう配でないから、細い光でもなんとか進んでいける。それでも、転んでしまいそうになる道を、先輩はまるで昼間と同じように、いかにも軽い足どりで前を進んでいく。
「昔の人がさ、こんなふうに丸い形の山を蛇に見立てたって知ってる?」
その途中、先輩がだしぬけに言った。
「蛇に?」
「そう。山の形が蛇の何かに似てると思わない?」
少し考えれば、その答えはすぐにわかった。
「蛇がとぐろを巻いた姿ですか?」
「正解。たぶん、昔の尾形家の人はこの山から蛇を捕まえてきたんだろうね」
ということは、ここは尾形家の、いや、先輩にとってはしんらんさまの聖地にあたるのだろうか。そんな場所に向かっているということは……。
つまり、どういうことになる? その答えを考えながら、山のなかを進んでいると、
「浅宮!」
玉森の声と懐中電灯のものらしい光が背後から飛んできた。
「浅宮、いるんでしょう!」
追手がかかるとは思っていたけれど、予想よりも早かったことに驚く。やってきたのは一人だけなのだろうか、声も足元も玉森の分しか聞こえない。
「でも、どうしてここに来たことが、玉森にはわかったんでしょう?」
「それは……」
「自転車か!」
先輩の言葉を押しのけるようにして、声が出た。ここにたどり着いたとき、自転車を隠さず、道に置きっぱなしにしてしまった。乗り捨てられた自転車を見て、玉森は俺たちがここにやってきたと確認したのか。
「それもあるだろうけれど、元々、私がここに来るってわかってたんだよ」
自分の失敗を後悔する俺に、先輩が言った。
「どういう意味ですか?」
俺の疑問に、先輩は答えをくれなかった。
「急ごうか。あの子、ちょっと面倒くさいし」
行けば、その答えはわかると言わんばかりに、山道を進んでいき、フェンスを通り越し、あの洞穴のある山肌に行きつく。
「なかに入って」
促されるままに、以前、二人で入った洞穴のなかに足を踏み入れる。
相変わらず、洞穴のなかはひんやりと冷たい空気に満ちていて、もちろん外と同様に、ここもライトの明かりがないと、足元すらおぼつかないほどに暗い。
闇からまた別の闇のなかへと急ぐうちに、あのなかだまりのように広がった場所にいきついた。
「じゃあ、開くん」
置かれていたランプの明かりに照らされた先輩の顔は、にっこりとした笑みが広がっていた。
「開くんはどうしたいの?」
問いながら、先輩がぐっと距離を近づけてきた。
「やっぱり、私に死んでほしい? 私を殺して、ましろちゃんやたまちゃんを元に戻すの?」
「…………」
「それとも、開くんもたまごもりをする?」
「俺は……」
つづきの言葉を発しようとする前に、先輩の唇に口をふさがれてしまった。
「ふふ……」
そのまま長い舌が俺の口のなかに滑り込む。味わうかのように、先輩の舌は俺の口内で動きまわり、唇が離れたのは、だいぶ時間が経ってからだった。
「どうする?」
力が抜け、地面に膝をついてしまった俺を、先輩が変わらずの笑顔で見つめる。
長い口づけに、まるで生気を吸われてしまったかのように、体に力も戻らず、頭もぼんやりとしてしまう。
「卵になったら、ましろちゃんやたまちゃんといっしょに開くんのことも、ずっとずっと大事にしてあげる」
「…………」
「私は、開くんの口から答えを聞きたいの」
「俺は……」
ましろが卵になってしまってから、俺はずっと考えてきた。ましろに何をしてやれるのか、俺がどうしたいのか。
先輩の促しのまま、心に秘めていた願いを口にしようとしたとき、
「待って!」
叫びの言葉とともに、玉森が姿を現した。その腰には、どうするつもりなのか一振りの刀が下げられている。
「まったく、無粋にもほどがあるなぁ……」
息を切らした玉森に、いかにも鼻白んだような声と視線を先輩が向けた。
「お願いです。市女様、浅宮を離してください」
「いや」、と、玉森の懇願を、先輩は一言ではねのける。
「どうしてですか?」
「どうして? 玉森の子が私にそんなことを聞くの?」
そんな市女先輩を説得することはできないと思ったのか、玉森は言葉を向ける相手を俺に変えた。
「正気じゃないよ、浅宮!」
「…………」
「自分でわかってないの? 今の浅宮は先輩に……」
「魅入られた、とでも言いたいのかな?」
玉森の言葉に、先輩が割って入る。
「開くん、どうなの?」
「おかしいと思わない? 先輩は……、人間じゃないんだよ! だんだん、だんだんおかしなことに慣らされちゃってるんだよ。今だって、そんなふうにぼうっとした顔してさ!」
確かに、はじめのうちはその正体がわからないこともあって、しんらんさまとなった先輩に強い恐怖を感じていた。
でも、今は? 恐ろしいとはもう感じていない。それは俺が市女先輩を神さまだと思っているからか、それとも玉森が言うように、先輩に魅了されてしまっているからか……。
「妹さんだって方丈だって、卵になったままなんておかしいよ。そんなの、死んじゃってるのと何が違うの!」
「私、さっきから悪ものみたいな言われようじゃない?」
玉森の叫びが洞窟内にわんわんと響く。一方の先輩は、ふざけたようにそんな言葉を口にしたけれど、声からは強い怒りが含まれていた。
「……!」
その気に反応し、玉森もぱっと後ろに飛びさがり、刀の柄に手を伸ばす。
「それで、私のことをまた切るの?」
「このまま、やめてくれなければ」
「開くんならまだしも、玉森の子にやられるわけにはいかないなぁ……」
すごみのある笑みを浮かべた先輩が、たちまちにあの半人半神の姿へと化身する。身に着けていたスカートを脱ぎ去ると、その足は長い蛇の尾と変わり、地面に叩きつけるようにして、震わせる。
「……っ!」
いざというときは、その覚悟を決めていただろう玉森も半人半神の姿となった市女先輩を前にたじろぐ様子を見せた。
「ちょっとくらい、こらしめてあげようか」
そう言うと同時に、先輩はするすると玉森に近づいていく。
先輩に対し、玉森も鯉口を切って、とうとう刀を抜いた。そうして、一声気合を発し、刀を横構えにして、先輩の体と素早く交差した。
「やるなぁ……」
振り返った先輩が少し驚いたように口を鳴らした。その脇腹からつ、つつと一筋の血が流れている。
「でも、もっと深く切れたんじゃない?」
「…………」
「もしかして手加減した?」
「そうです……、お願いだから、このまま引き下がってくれませんか?」
刀を体の中心まっすぐに構えなおしながら、説得の言葉を玉森が再び口にする。
「いやだって言ったら?」
けれども、それは結局、むだにおわった。どう見ても、玉森の言葉を先輩が受け入れるような様子はなかった。
「それなら……」
ぐっ、と刀の柄を握り直した玉森のまわりを、先輩は囲い込むようにぐるぐるとまわりだす。
それとは対照に、玉森はその場から動かず、目だけで先輩の動きを追い、その構えを崩さな
い。
「ふふっ……」
回転のスピードをあげていく先輩。このまま玉森の体をとらえてしまおうというのか、速さに反比例するかのように、囲い込む輪の大きさは狭まっていく。
徐々に逃げ場もなくなっていくというのに、玉森は少しも慌てるようなそぶりを見せなかった。体を横向きに開き、その動きのまま、刀をもう一度横構えにする。
そして、とうとう先輩の下半身が玉森の体に巻きつこうとしたとき、
「やっ!」
と、短くも、十分に力のこもった声を発し、玉森が垂直に飛びあがった。
「きゃあ!」
次の瞬間、先輩の悲鳴が洞穴に響いた。玉森は先輩の包囲から、飛びあがって抜け出すと同時に、その上半身を刀でないでいた。
そうとう深く体を切られたようで、くっ、と小さく声をあげながら、先輩がじりじりと後ろにさがる。その傷口からは、先ほどのものとは比べものにならない量の血が流れ出ていた。
「…………」
すぐには後追いをせず、玉森はその様子を確かめるように、残身の構えをとる。
強い。先輩に油断がありすぎたのだとしても、玉森はとてつもなく強いと言って間違いはない。
あの小さな体のどこに、それほどの力と技量を秘めているのだろうか。いや、玉森が尋常ではない剣の使い手だとしても、あまりにもその度が過ぎるようにも感じた。
尾形秀治はしんらんさまには敵が多かったと言っていた。けれども、玉森の使う技は、その敵からしんらんさまを守るために培われたというより、元より、大蛇を相手にするために編み出されたかのように洗練されている……。
「このっ!」
感じている苦痛を怒りでかき消そうとするかのように、先輩の顔が朱に染まっていく。怒りの表情で玉森に近づき、腕や尾をもって攻撃をする。
「くっ……」
焦っているのか、それとも痛みのためか、先輩の大ぶりな連続攻撃を、玉森は余裕をもってかわし、隙があれば、反撃を行う。
小さな、しかし、的確な動きで切りや突きで攻撃をするたびに、先輩の悲鳴があがる。あちこちを傷つけられた先輩の体は、いつしか流れた血で真っ赤に染まる。
傷の治りは早いと言っていたはずのなのに、回復の気配もない。玉森の腕前に加えて、刀自体にも何か秘密があるのか、その傷は治ることなく、先輩は劣勢に追い込まれていく。
「やっぱり、あなたは完全な神ではないんですね……」
そうつぶやいた玉森に、先輩が視線を返すも、その顔は苦痛がゆがんでいる。
「ここで……、しんらんさまの聖地で、完全な神になるつもりだったんですか」
「うるさい!」
玉森を黙らせようとして、先輩が叫んだ。その後、何度か攻撃を加えるも、結果は同じだった。
「これで……」
とうとう攻撃の手も止まってしまい、肩で息をする先輩。反撃をしてこない――したとしても十分にかわせる――ことを確信したのか、玉森はとどめの一撃をはなとうと、その距離を一気に縮める。
「おわりです!」
叫ぶと同時に、半上段に構えた刀を玉森が振り下ろそうとする。
――まずい!
その瞬間 今まで、まるで映画の一幕を見るかのように、たわんでいた気持ちが元に戻った。
焦りの気持ちのままに、俺は先輩と玉森の間に飛び込んだ瞬間――、
「開くん!」、「浅宮……!」
二人の声が同時に重なった。
その結果は火を見るよりも明らかだった。玉森は刀を止めることはできず、先輩のかわりに、俺の体が深々と切られてしまう。
「うわあっ……」
痛みと衝撃で声にならない悲鳴が出る。よろよろと踏み出した足も、数歩もいかないうちに地面をつかみそこねた。
「浅宮! ごめん、浅宮!」
倒れてしまった俺の体に玉森が駆けより、半狂乱の形相で叫びをあげる。
「どうして、あぁ、どうしよう!」
あまりにも痛みが大きすぎて、脳が感覚を途絶しているのか、それとも、もう人事不省の状態に陥ってしまっているのか、刀傷を受けた痛みも感じなかった。
その代わりのように、流れ出る血の量と赤さに、あぁと悲鳴のような、ため息のような声が出た。ここからすぐに病院にかけ込めるわけもなく、少しばかりの手当では、傷を治すことはおろか、出血を止めることもできないだろう。
俺は死ぬのか。その実感はなぜかわかず、
「早く、ここから出ないと……」
俺の体を起こそうとした玉森の体がひゅんという音とともに視界から消えた。長いしっぽを鞭のようにふるって、先輩が玉森を壁に吹き飛ばしたのだった。
「開くん……」
壁にぶち当たり、うめきの声をあげる玉森にかわって、市女先輩が俺の顔をのぞき込む。
「よかった……」
先輩は俺の体を抱きあげると、そこからさらに洞穴の奥深くへと進んでいく。
この洞穴はどこまでつづいているのだろう。
途中、枝分かれする道があっても、先輩は少しも迷う様子を見せない。
抱きかかえられ、進む間にも、体から血は止まらず、どんどんと意識も薄れていく。
死ぬのかな……。
ぼんやりとそんなことを思いながら、首から下げた巾着袋に手をやる。なかに入ったましろを両手でそっと包みこむ。
ましろ、俺、死んじゃうよ。
死ぬことは、どうしてだろう、それほど怖くはない。けれども、ましろや先輩を残して、この世からいなくなることは嫌だった。
ただ、その不安の気持ちもだんだんと感じなっていき、意識の暗がりに落ちていく。
本当に死んでしまうんだ。
そう感じたとき、ましろを包む手からも力が抜けていって――。
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