三話⑥
それから数分間、尾形秀治の迷いの分だけの時間を置いて、雅卵堂の扉が再び開かれた。どたばたと大きな足音を立てて、尾形秀治がなかに入ってくる。
「やったのか……」
そうつぶやいた尾形秀治の表情は薄暗いなかでも、はっきりわかるほどに青ざめて、形が崩れていた。
これが尾形秀治の素顔なのだろうか。普段の、必要以上に真面目くさったような顔はそれを隠すための仮面だったのかもしれない。
「本当にやってしまったんだな……」
白襦袢をかけられ、その身を隠された市女先輩の前に、尾形秀治はくぎ付けになり、同じ言葉をぼうぜんとした表情で繰り返す。
「聞いていいですか?」
「……何をだ?」
半ば放心状態にあるのか、問いへの返事は遅れ、その声も震えていた。
「どうして尾形さんは、先輩を殺してくれなんて頼んだんです」
俺の言葉に、尾形秀治はぎょっとしたように目をむいた。
「それは、市女がおかしくなったからだと言っただろう。このままでは人々にもっと大きな被害が……」
「でも、ここに閉じ込めておけば、先輩は何もことを起こせないんじゃないんですか」
「いつかは封印を自分で解いたかもしれない」
「確かにそうかもしれませんけど、本当のところは、先輩が邪魔なだけだったんじゃないですか。先輩がいると、次のしんらんさま……、尾形さんたちの望むしんらんさまを迎えることができないんじゃないんですか」
「さっきから、何が言いたい?」
「それとも、たまむかえができたとしても、先輩っていう不安要素を残しておきたくなかったのかな……」
図星だったのか、尾形秀治の顔が大きくひきつった。
「それが、君に何の関係があるんだ?」
「いや、何も関係はないです」
「じゃあ、なぜさっきからそんなことを言う?」
「それは……」
言葉の途中で、尾形秀治の顔に握り固めていたこぶしを振るう。予想もしていなかった俺の攻撃に、つまったような悲鳴をあげて、尾形秀治が床に転がった。
「な、なっ……」
これまで人から殴られたこともなかったのか、驚きと痛みで立ちあがることもできない尾形秀治をじっと見おろす。
「尾形さん」
「……なんだ、なんだんだ、いきなり!」
「後ろ」
俺の一言に、尾形秀治のわめき声が一瞬にして止まった。そのまま、いかにも恐る恐るの表情で背後を振り向いたとき――、
「うわあぁ!」
背後に立つ市女先輩の姿を見て、尾形秀治は気を失ってしまった。
「いや、こんなにうまくいくとはね」
いたずら気に笑う先輩から、俺は目をそらした。今の先輩は何も着ていない、真っ裸の姿なのだ。
「先輩、早く着替えて」
「お粗末なもの見せちゃったかな? それとも、見とれちゃう?」
雅卵堂から脱出するために、先輩に一芝居うってもらった。
悲鳴をあげてもらい、俺が先輩を手にかけたように見せかけた。白襦袢を脱いで、先輩の体にかけたのもそのためだ。
もちろん、演技がばれてしまう可能性があったから、尾形秀治の気をひくため、あんなことを――その真意を確かめたかった気持ちもある――問いかけをした。
「着替えたよ」
目を戻すと、言葉とおり、先輩はいつもの制服姿でいた。
「急ぎましょう」
倒れた尾形秀治の元に近寄り、そのポケットから雅卵堂の鍵を取り出す。そのまま二人、雅卵堂を出ると、扉に鍵をかけ、尾形秀治を閉じ込めてしまう。
その足で屋敷の車庫に向かい、逃げるための手段を探す。とはいえ、車の運転ができるわけでもない。かわりに足になるものがないかと、辺りを見まわしていると、
「あれはどう?」
先輩の視線の先にあったのは、電動の自転車だった。逃げるのに自転車を使うというのは、なんとなく格好がつかないような気もしたけれど、背に腹はかえられなかった。
「それじゃあ、行きましょう」
先輩を荷台にのせて、ペダルをこぐ。人払いされていることが幸いした。屋敷の門を抜けても、誰も追いかけてくる気配はない。
「どこに行くか当てがあるの?」
「それは……」
背中越しに聞こえた先輩の声に、言葉がつまってしまった。何も考えていなかったわけではないけれど、はっきりとした当てはなかった。
俺の家や二四時間営業の店では隠れつづけるには適さない。そう時間も経たないうちに、居所を知られてしまうだろう。かといって、市外に出たとしても、それには金がつづかない。
「じゃあ、私に考えがあるんだけど」
そう言った先輩の指示に従って、真っ暗な夜道を自転車でこいでいく。
進む道は本当に真っ暗で、ライトで照らされる場所以外は黒で塗りつぶされたように、何も見えない。風が吹くたび、目に見えないところで葉鳴りがする。ざわざわと音が響くこの道は、以前通ったことがあるのだろうか……。
そんな真っ暗な夜の道、先輩を背中にのせて、ただひたすらに自転車で駆けていく。
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