二話⑦
翌日、かんかん照りの日差しの下を、俺は力のない足取りで進んでいく。頭はぼんやりとして、地面を踏む足もひどく頼りない。
――昨日のあれは何だったんだ。
昨日の晩からほとんど記憶がない。気がつけば、俺は自分の部屋で目を覚ましていた。どうやってあの小屋から家に戻ってきたのか、それすらはっきりと覚えてはいなかった。
もしかして、あれは全部夢だったんじゃないか。
そう思いたかったけれど、昨夜感じた恐怖は今でもまざまざと思い起こすことができる。かといって、あまりにも現実離れした出来事を、すんなりと受け入れることもできない。
あの化物の正体は何だったのか。どうして俺の元にやってきたのか。
昨夜の考えが、再び頭のなかで鎌首をもたげる。
あれはましろが俺の元へとつかわした、蛇の怪異だったという可能性だ。
――そんなことは……。
信じたくない気持ちと同時に、疑問が胸に生まれる。
蛇の化物を俺の元にやるなんてこと、あいつができるのだろうか。今までずっといっしょにいたのだ。そんなおかしな力、ましろは持っていなかったと断言できる。ここ最近、そんな力に目覚めたのだとも思い難い。
いや……、先輩が教えてくれたとおり、この地方には蛇にまつわる奇妙な話がいろいろと伝わってるようだ。
この岡山は、様々な伝説――一番有名なものが桃太郎のそれだろうか――が残る場所だという。古代にはずいぶんと繁栄した土地で、今でもあちこちに古墳や古い社を見ることができる。
そのなかでは比較的新しいものだけれど、市女先輩に教えてもらった道通神社は、トウビョウ――あの爺さんも言っていた言葉だ――という蛇の憑き物を鎮めるための場所らしい。
そんなところがあるならば、反対に、当人に特別な力がなくとも、人に呪いをかけるような場所があっても不思議はないかもしれない。
実際、ネットだったか、テレビのホラー番組で、藁人形を使って人に呪いをかける丑の刻参りが行われている――訪れた人間が勝手にそんなことをする――神社を見たことがある。
そんな場所に行くために、ましろは姿を消したのか。
そこで呪いをかけた結果、あの蛇の化物が俺の元にやってきたと考えれば、これまでの出来事のつじつまは一応合ってしまう。
また、人を呪うには、その名前が必要になるともいう。あの化物が俺の名を呼んでいたのは、そのせいだったのかもしれない。
俺がましろに憎まれていたことは間違いない。けれど、ましろがあんな化物を俺の元にやったとは、やはり思いたくはないし、思えない……。
ただ、そうではないとしても、あいつの正体は何なのか、そして、なぜ、俺の前に現れたのかという疑問は依然として残る。
何の確証もないことを問いつづけても、答えは出ない。むだとわかっているのに、考えを止められない。頭のなかで、うずまきのように、ぐるぐると思考だけがまわりつづける。
この暑さで頭もやられてしまったのか、意識ももうろうとする。ここらでよく見る、庭付きの家が並ぶ通りには陽炎がたつばかりで、人の姿もない。まるで書き割りのような町を一人、汗を流して歩く。
目覚めているのに、夢のなかにいるような心地のままで、ひきこもりの支援団体で紹介された四件目の家に向かう。
こんなときにやることかと思いもしなかったけれど、家にもいては、それは同じだった。いや、家で何もしないでいると、いっそう余計なことを考えしまい、頭がおかしくなっていきそうだった。
「ここがか……」
その家はどこにでもあるような、二階建ての一軒家だった。
「すみません……」
インターホンでおとないを入れると、玄関から一人の女性が姿を現した。二十代後半くらいだろうか、ニコニコと満面の笑みで、俺を出迎えてくれた。
「君が浅宮くん? わざわざ来てくれてありがとうね」
出てきたのは、安藤というひきこもり本人ではなく、その姉だった。あぁ、よさそうな人でよかった。昨日はいきなり門前払いを喰らった家もあったしな……。
いまだ鈍った頭でそんなことを思いながら、家のなかに足を踏み入れた瞬間、夢から覚めたようにはっとした。
「……!」
その家には玄関以外に、扉という扉がなかった。玄関からつづく居間、洗面所はもちろんのこと、トイレの扉ですら蝶番ごと外されていた。
「驚いた?」
振り返ると、出迎えてくれたときと少しも変わらない笑顔で、安藤の姉が俺を見つめていた。
「あ、いえ……」
「どうして、人がひきこもりになるかわかる?」
あまりのことに愛想笑いも浮かべられない俺に、安藤の姉がいきなり問いかける。
「それはね、家に部屋があるからなんだよ!」
そして、戸惑う俺を前に、玄関先でとうとうと自説を披露しはじめた。
「ひきこもりが問題になったのは、平成に入ってからでしょう。昔と違って、社会が豊かになって、子どもが働かなくても生活が成り立たなくなるなんてこともなくなったから……」
こいつは……、突然、何を言いだすのだろう。昨日の出来事も怪異ならば、今、俺の目の前にいる安藤の姉も一個の怪異だった。
「それに核家族化も進んでいってね、子どもにも部屋が与えられることも、ひきこもりが生まれた理由の一つなの。だからね、私は家から扉をなくしたの!」
安藤は熱にうかされたように、笑顔でしゃべりつづける。その姿は明らかに正気のものだとは思えなかった。
「あ、俺……」
触らぬ神に祟りなし。やっぱり帰ります、と口にする前に、安藤の姉が俺の手をつかんだ。そして、いったい何がおかしいんだ、張りつけたような笑顔のまま言葉をつづける。
「ごめんね、外も暑かったでしょう」
今、飲み物を用意するからと、抵抗することも逃げ出すこともできずに、女とは思えない力の強さで居間へと引きずられる。
「…………」
そこでも異様な光景はつづいていた。
家になかったものは扉だけではなく、居間と台所の戸、押し入のふすまや窓の障子、到底、人が入ることなどできないような収納棚の扉すらなくなっていた。
家の様子に、俺は『隙間女』という怪談を思いだした。
それは家の隙間にひそむ、紙のように薄い体を持つ女の化物の話で、その存在を恐れた家の住人が、部屋中にある隙間をガムテープや布で埋めてしまう……、というのが大筋だ。
この人のしていることはそれに似ている。
安藤の姉は人が入れるような空間が家にあることを恐れているのだ。ひきこもりも、こもれる部屋がなければ、そうではないとでも言いたいのか?
――いや、そんなわけないだろ。
こいつもおかしければ、ひきこもりの当人もよくこんな家にいられるものだ。やっぱり、長居をしてはいけない。少し話をするふりをして、すぐにこの家から出ていこう……。
「それで、今日は妹さんのことを聞きたいんだっけ?」
そう心を決めた俺の前に、台所から彼女が再び居間へと入ってきた。
――なんだ?
その姿に、俺は息をのんだ。
「わざわざ訪ねてきてくれて申し訳ないけど、この子、今、話しができる状態じゃないのよ」
安藤の姉は手にコップと、一つの異物を抱えていた。
卵。安藤の姉が左脇に抱えるようにして持っていたのは、一つの卵だった。
形は鶏卵より細長く、大きさは手におさまるほど。家に差し込む日の光をつややかに反射するその様子はつくりものとは思えない。
あまりのことに、ただ黙って卵に視線を向けていると、思い出すことがあった。卵といえば、方丈の家にあったあの巨大な模像に、市女先輩の実家で見た様々な卵の意匠、そして――、
「しんらんさま」
卵の神だというしんらんさまだ。
「しんらんさまにね、この子を卵にしてもらったの」
「……はぁ?」
「浅宮くんの妹さんもひきこもりなんだよねぇ」
俺の前で、安藤の姉は体の前に抱えた卵をやさしくなでる。
「ほんとに、大変だよね。ひきこもりって当人も辛いだろうけど、家族だってしんどいよね」
その言葉に、目の前のことも忘れ、思わず首がうなずいた。家族にひきこもりがいることの苦しみについて話すことは初めてだった。
「うちの弟もね、学校も中途半端でやめちゃって学歴もないし、アルバイトだって全然つづかなくて、家にこもるようになったの。はじめは家で暴れることもあったし、暴力もふるわれたことあったなぁ」
言葉につられて家の様子を眺めると、その痕跡を見つた。壁の一部にはひびが入り、穴でも隠しているのか、妙な位置にカレンダーがかけられている。
「さっきも言ったけど、ひきこもりが生まれるのは、こもれる部屋が家にあるからでしょう」
「…………」
「はじめのころは、私もひきこもるなんてまともじゃないって思ってたからね、あの子が部屋にひきこもれないように、家から全部の扉を外したの」
「はは……」
口からもれてしまった乾いた笑いに、彼女はにっこりと笑みを返した。
「そうしたらね、この子も部屋に布でしきりをつくったり、ゴミ袋を頭に被ったりして、大変だったなぁ」
――こいつ、やっぱり頭が変になっている。
そう思いつつも、俺は席から立つことができなかった。
「お父さんもお母さんも家から逃げちゃってね。けど、だんだんとあの子も元気がなくなっていって、何もしないで一日中、ベッドで寝ているようになったりさ」
「…………」
「お風呂にも入らないで、かわりに私がタオルで体をふいてあげているときにね、この子いつも死にたい死にたい消えちゃいたいって言ったの」
言葉の途中で、ふ、と笑いのような、ため息のような声がはさまった。
「これからどうなるんだろうって、毎日思ってると、気持ちが暗くなっちゃって。けど、沈んだ顔をこの子に見せたくなかったから、私はいつも笑っていようって! ほら、笑顔のあふれる家庭ってよく言うじゃない」
安藤の姉の異様な笑顔の理由はこれか。自分のほおを指さすおどけたようなしぐさにも、薄ら寒いものを感じていると、
「でも、私も一生、この子の面倒なんかみたくはなかったからさ」
突然に発せられた、あけすけな言葉に息をのんだ。
「付き合ってた人がいたんだけどね、弟がひきこもりっていうと、逃げちゃって。お父さんとお母さんも相変わらず、私たちには向き合ってくれなかった」
出された飲みものにも手をつけることなく、安藤の話をじっと聞きいってしまう。おかしいと思っていたはずなのに、安藤の語る言葉に共感を覚えてならなかった。
「家族って面倒くさいよね。もちろん、世の中にはお互いのことを全然気にしない家族だっているだろうけど、私はそうじゃなかった」
過去を語る間、安藤からあの笑顔がだんだんと引いていく。
「好きと嫌いって気持ちが縄みたいにねじれあってさ、いろんな本も読んだし、早くひきこもりが治ってほしい、そのためならなんでもするなんて思いながら、朝起きたときは、あの子が死んでればいいのにって何度も何度も思ってた」
話の途中で、安藤は一度、表情のない顔を窓の外に向けた。開け放しになった大窓から、光といっしょに風が入り込む。その風に体を冷やされていたのか、俺の背中からはいつの間にか、汗がひいていた。
「私もあの子を見捨てることもできなくて、どうしようもなくなっていたときにね、ある集まりに出たの」
「…………」
「そこでね、たまひめさまに、しんらんさまのことを教えてもらったの!」
言葉とともに、ぱあっとした笑顔が安藤の姉に戻った。まさに救済を受けた信者のように、その目はきらきらと輝きに満ちている。
――たまひめに、しんらんさまか。
俺は心のなかでつぶやいた。
たまひめとは、ましろのノートにあった言葉だ。今ここで、思わぬ形でそいつと出くわしてしまった。
「たまひめさまは言ってくれたの。この世のなかには卵のまま生まれないほうが、そのなかにこもっていたほうがよかったものもあるって」
確かに、世界には生まれなかったほうがいいものなんて数えきれないほどあるだろう。けれども人間を卵にすることなんて、神さまでもない限りできやしない――、
「まさか……!」
はっとした俺を、安藤の姉が、あの硬直した笑顔で見返す。
「そう。たまひめさまとしんらんさまにお願いしてね、この子を卵にしてもらったの」
「…………」
「死んでなんかいない。この子はこのなかにいるの。わかる? このなかに、この子はずっとこもりつづけているの」
声がだんだんと耳から遠ざかり、心の天秤は現実と狂気の間で揺れる。
はっきり言わずとも、目の前にいるこの女はおかしい。
そんな女の言葉を額面どおり受け取ることはできないし、そもそも、安藤の姉が俺に語って聞かせた話は一から十まで嘘か妄想なのかもしれない。
昨日までの俺なら、そう断じていた。
「興味、ある?」
けれど、今は違う。そんなことがあるわけないというには、おかしなことに遭遇しすぎていた。
何も言えずにいる俺の姿を、かつての自分に重ねたのか、安藤がつづけて言った。
「浅宮くんも、その集まりに出てみたらどう?」
そうして、半ば無理やり渡された紙片には、見覚えのある住所が書かれていた。
その住所が示すのは、方丈たまきの家だった。
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