一話②
方丈たまきと初めて出会った日。
その日も、普段と変わらない一日になると思っていた。
週の中日にあたる水曜日。朝の七時前、いつものように携帯のアラームが鳴る前に目が覚めた。寝起きのまどろみ、その余韻を楽しむことを許さないかのように、強烈な光が薄いカーテンをすり抜け、まぶたに突き刺さる。
「あーぁ……」
一度、寝床から起きてしまえば、眠気は体のなかから消え去っていく。カーテンを引き、動かすたびにきしんだ音を立てる窓を開け、さっさと布団もあげる。それから簡単に身支度を済ませたところで、
「開(かい)!」
ばあちゃんの大声が俺の耳に届いた。
「飯! はよーけー!」
しわがれ、がさついた声に応じ、急いで階下の台所に降りる。
「ばあちゃん、おはよう」
朝の挨拶を口にしても、ばあちゃんはむすっとしたまま、にこりともしなかった。あごをしゃくり、食卓の上にのった朝飯を、早く食ってしまえと無言で示す。深いしわとともに、顔に刻みこまれたようなその不機嫌さに、俺も少しあてられた。
「なんだよ、いっつもさ……」
「文句あるんか!」
ひとりごとのつもりで発した声に、激しい反応が返ってきてしまった。
「ほんと、耳だけはいいんだから……」
「うるせえ!」
一声口にし、ばあちゃんは仏壇の前に座った。もうこれ以上言葉を交わしても、ばあちゃんの逆鱗に触れるだけだと俺も椅子に腰をおろす。
「いただきます」
一応、感謝の気持ちを声に込めるも、ばあちゃんには伝わらなかったらしい。俺に顔を向けることも返事もすることなく、仏壇の前で、ぶつぶつとお経らしき言葉を唱えはじめる。
まぁ、そうだよなと、その姿を横目に俺は思った。
ばあちゃんにとっては、東京からここ岡山に転がりこんできた俺と妹のましろの面倒を見る
ことがわずらわしくて、嫌で嫌でたまらないんだろう。
俺が中学三年生のとき、母親が突然に蒸発した。残された俺たち兄妹は、母方の血縁である
ばあちゃんに引き取られ、東京からここ岡山へとやってきた。
とはいえ、姿を消してしまう前からも、母親との生活はろくなものではなかった。あいつは俺たち兄妹の身のまわりの世話なんかほとんどしなかった。いつも男をとっかえひっかえしては夜毎に遊びまわって、自分のことだけしか頭になかった。
生みの父親の顔は覚えてない……、というより、どんな人か名前も知らないし、俺とましろの父親が同じかもわからない。そんな行方も知れない父親のかわりに、俺たちを助けてくれるような男もいなかった。
ばあちゃんはそんな母親をひどく嫌っている。不肖の娘ってやつか。だから、俺たちのことだって少しも可愛くなんてないんだろう。同じ屋根の下、こうして生活を共にすることになる前だって、顔を合わせたことも過去に一、二回しかないはずだ。
そんなふうに、もともと没交渉だったことに加えて、はっきり言って、ばあちゃんは頑固で偏屈がすぎる人だった。
「ばあちゃん」
「…………」
「ばあちゃん、ましろの飯は?」
「あん子のはええんじゃが!」
いかにも不機嫌そうな声に、もう何かを言い返す気にもならなくなる。
自分の食事を済ませると、炊飯ジャーから米をよそい、さっと三角の形に握る。握ったおにぎりにラップをかけ、お盆に残り物や自然解凍のコロッケなんかものせ、そのまま二階へと持ってあがる。
働かざるもの食うべからずを地でいくのか、ばあちゃんはましろの食事を用意しようとしない。仕方ないから、俺がかわりに簡単なものをつくってやる。
「おい、ましろ」
妹の部屋、その扉を足でこづいてみても、返事はない。いつものことだけれど、今日は嫌味な気持ちが勝ってしまった。
「いいご身分だよな、まったく……」
思わず口にしてしまった嫌味にも、もちろん反応はない。扉の内側はひっそりと、まるで誰もいないかのように静まりかえっている。
「めし、置いとくからな」
そのまま、お盆を扉の横に置いたところで、口からため息がもれた。
妹のましろは単に惰眠をむさぼっているわけでも、反抗期で俺やばあちゃんのことを無視しているわけでもない。
ましろはひきこもりの十四歳で、中学校にも通ってない。とはいえ、夜中には出かけることもあるから、部屋から完全に出てこられない末期状態にあるわけでもない。
けれども、ここ一カ月ほどは家族である俺もその顔をまともに見てはいないし、こうして声をかけていても、言葉は常にこちらからの一方通行になっている。
――いったいこの部屋で何しているんだか……。
カーテンが引かれたままの薄暗い部屋でやれることは限られる。テレビを見て、ネットをして、ゲームをして、漫画を読んで、腹が減ったら用意された飯を食って、眠くなったら寝る……。
そんなふうに自分だけ時が止まったような毎日で不安にならないのか、同じ年の子たちとはまったく異なる生活を送ることに心配はないのだろうか。
いつまでも、こんなんじゃいられない。俺やばあちゃんだって、ずっとお前の面倒をみられるわけじゃないぞ。
そんな説教をしたり、扉越しに何度もこれからのことを問いただしたりしてみても、返事は当然のように返ってこなかった。
――まるで、殻だな。
蹴破ろうとすれば、できなくもない扉を前にして思った。部屋のなか、ましろは自分の殻に閉じこもってしまっている。
このままではいけない。ましろも同年代の子たちと同じように、普通に学校に行って、まともな生活を送らなければならない。
そうは思っているけれど、無理なこともできなかった。さすがに、叩いて学校に行けとは言えないし、まさか学校まで、首に縄をつけて引っ張っぱっていけもしない。
これからどうすればいいのか、今の俺に思いつくことはない。
そう、ましろがひきこもっているのだって、はっきりとした理由だってあってないようなものなのだ。
ひどいいじめを受けたというわけでもなく、人間関係の大きなトラブルがあったわけでもなければ、勉強ができなくて、どうしようもなく落ちこぼれたわけでもない。
そうすることが当然かのように、部屋にこもりはじめてしまったましろ。そんなましろを強引に部屋から引き出すことはできなかった。
いや、一月前、そうしようとしたとき、ましろはひどく抵抗して、俺たちは大喧嘩をしてしまった。
そのときのことを思い出そうとすると、今でも胸が苦しくなって、目の奥もチリチリする。
「……じゃあ、俺、学校に行くからな」
一声かけてから、いったん自分の部屋に戻る。出かける準備を済ませ、家の外に出た瞬間、体いっぱいに太陽の光が降り注いだ。夏特有の粘りっこさがまだ少ない、透きとおるような白い光が朝の空気のなかを、いくつもの筋を描いて走る。
まさに晴れの国というだけのことはある、あまりにもまぶしい岡山の七月だった。
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