二話⑩
それから、どれくらいの時間が経ったのだろう。体もろくに動かず、時計を見ることもできない。意識にももやがかかり、時間の感覚も間延びしていた。
まんまと方丈にいっぱい喰わされたことになるのか。悔しさに歯噛みしながらも、胸に期するものもあった。
方丈が言った。ここにましろがやって来る。だから、今はおとなしく待っていればいい。そのうちにきっと体も動くようになるだろう。
そんなふうに腹を決めて、畳の上に伏せっていると、小屋の入口で扉の開く音がした。
「ましろ……」
そろそろとした足どりで小屋に入ってきたのは、案の定、ましろと方丈だった。数日ぶりに見たましろの姿に、気持ちがいっぱいになってしまい、名前を呼ぶ以外に、言葉が出てこない。
「お兄ちゃん……!」
床に横たわったままの俺に、ましろも驚き、ひどくうろたえた様子を見せた。
「ましろちゃん、どうする?」
動揺するましろに方丈が寄り添い、ささやいた。
「たまごもり、やめてもいいんだよ」
方丈の言葉に、ましろは大きく目を見開いた。その顔には一言では言いつくせない、様々な感情が広がっている。
「ましろ……!」
いまだ体は動かず、起きあがることもできなかったけれど、必死でましろに呼びかける。
「帰ろう、もう、こんなところから……」
「…………」
ましろは黙って答えない。その場で化石になったようにたたずんでいる。体を動かせず、畳の上にはいつくばっていると、ずりずり、と聞き覚えのある音が近づいてきた。
――あいつだ。
見て確かめなくてもわかる。上半身は人間、下半身は長い蛇の体をした、あの蛇の異形が小屋のなかへと入ってきたのだ。
「……!」
その体はずいぶん大きく、天井に頭がつきそうになっている。特に下半身は部屋のを半周するほどに長く、また丸太のような太さを持っていた。
俺のいる場所からでは、その後ろ姿しか見えず、暗さのため、はっきりとその姿は見えないけれども、下半身のうろこがてらてらとした光を放ち、上半身は何も身にまとっていないため、女性特有の丸みと細さが調和した体の線があらわとなっていた。
「しんらんさま」
方丈がわずかな笑みをもって、蛇の異形に呼びかけた。
「…………」
蛇の化物……、しんらんさまの姿に、ましろも言葉を失っていた。まさにあっけにとられた顔で、しんらんさまをじっと見つめている。
棒立ちになったましろのもとに、しんらんさまが近づいてく。長い下半身を器用に動かし、しんらんさまはましろの顔の高さに目線を合わせた。
「やめろ……」
しんらんさまはぐっとましろに近づいたかと思いきや、そのまま体に両腕をまわした。何のつもりか、しんらんさまは、その手でましろを抱きしめた。
「なっ……」
そのまま、ましろの背中をやさしげな手つきでさすり、その耳元で何事かをささやいている。
「ましろ……!」
蛇の魔性か、それとも、別の力が働いているのか、ましろは抵抗することも嫌がるようなそぶりを見せることもなく、しんらんさまに自分の体を預けてしまっている。それどころか、両の目も薄く閉じられ、しんらんさまを恐れるような気配もない。
――いったい、なんなんだ?
目の前で起こることに、理解が追いつかない。
これから、たまごもりとかいうやつをする気なのか?
少しずつ体に力が戻りかけてはいるけれど、起きあがり、ましろを連れて逃げるほどに回復はしていない。
なすすべなく、畳の上に伏せっていると、しんらんさまが一度、ましろから体を離した。
ぐっと上向けたしんらんさまの顔が、それこそ裂けるかと思うほどに開いた瞬間――、
「このっ!」
声と同時に、鋭く、光るものを持った何ものかが小屋に飛び込んできた。
その姿は蓑笠で隠され、正体はわからない。小屋に入ってきた勢いのまま、誰か――声からして女の子だとはわかった――がしんらんさまに切りかかる。
不意打ちに、しんらんさまも攻撃をかわすことはできなかった、悲鳴をあげて、ましろからも腕を離す。
突然のことに、みな――もちろん方丈も――もあっけにとられ、そのまま棒立ちになっているなか、
「ほら、早く立って!」
正体不明の誰かが、ぼうぜんとするましろの手を引っぱりながら、俺に向かって叫んだ。
「……っ!」
体をくねらせ、痛みに声をあげるしんらんさま。逃げるタイミングは今しかなかった。
俺も必死になって体を起こし、力の入りきらない足で、出口に向かって全力で走る。
振り返る余裕もなく、無我夢中で足を動かし、小屋の外へと出る。力はいまだ完全に戻らず、泥のなかを走っているように、一歩一歩ごとに足ががくりと沈みこむ。
倒れてしまったらおしまいだと、転びそうになりながら駆ける前で、ましろもその誰かに引きずられるようにして、よたよたと走っている。
何があっても、足を止めてはならない。その一念で走っていくと、だいぶ小屋からも離れていた。走る間、俺たちのあとをしんらんさまが俺たちを追いかけてくる気配はなく、あの移動音も聞こえない。
どうにか、難を逃れることができたのか。足を止め、振り向くと、入口に立つ方丈の姿が見えた。
「…………」
何ごとかを繰り返し口にしているけれど、離れた場所からではその声が届かない。
ただ、その姿を目にしていると、頭に浮かぶ言葉があった。
――待って……る?
暗闇のなか、方丈は何度もその言葉を繰り返しているようだった。
ましろも、小屋のそばにたたずむ方丈の姿をじっと見つめていた。
「あ、あれ……?」
足を止めているうちに、俺たちを助け出してくれた正体不明の誰かは、まるではじめからいなかったかのように、姿を消していた。
「帰ろう、ましろ」
ましろの手を引き、家路をたどる。
わかったとも、嫌ともいうことなく、ましろも俺のあとをついてくる。
そのまま俺たちは、一言も言葉を交わすことなく歩きつづけた。
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