二話⑤

「や、開くん」

「先輩、今日もありがとうございます」

「お礼言われるほどのことなんてしてないよ。……結局、見つからなかったからさ」

 今日、俺がひきこもりたちの元を訪ねる一方で、市女先輩は岡山市のほうで、ましろを探していてくれた。

「駅のホームやその周りを探してみたけど……」

 やっぱり難しいね、と先輩がつづけてつぶやいた。

 岡山市にましろが行ったという確証はなかった。だから、ましろが見つかる可能性なんてほとんどないに等しいのに、先輩は自分から提案し、出かけて行ってくれた。

 ――先輩にまで迷惑かけて、あいつ、どこ行っちゃったんだよ。

 ましろがいなくなって、もう三日目。時間だけがどんどん過ぎてしまい、心には焦りと不安ばかりが募っていく。

「開くん、このあとどうする?」

「もう一度ショッピングモールとかで、妹を探しに行きます」

 そう答えた俺を、先輩は思案顔で見つめる。

「あのさ、開くん……、よかったら、ちょっと付き合ってくれないかな?」

 そのまま、先輩に連れていかれたのは非常に奇妙な場所だった。

 人気のない、辺ぴな場所にある停留所で降りたかと思うと、先輩は山のほうに向かって歩いていく。山とはいっても、見あげるほどの高さで、それほどの大きさもない。ただ、円錐形に盛りあがった山のなかを通る道はこの土地らしく緑が濃く茂る。

 時間は四時近いけれど、日差しはまだ強い。蝉の鳴き声が響くゆるやかな道を、先輩は鼻歌まじりの、軽い足取りで進んでいく。

「その歌、何ですか?」

 初めて聴く歌なのに、そのメロディーも歌詞も妙に俺の耳に残り、尋ねてみる。

「イエローモンキーっていうバンドの『楽園』っていう曲なんだけど、知らないかな? まぁ、結構昔の歌だからね」

 答えると、先輩はひどくけったいな名前を持ったバンドの曲のつづきを口ずさんだ。

「そんなのどこで知ったんです?」

「友達に教えてもらったの」

「友達……」

 友達という名の彼氏だろうか。そういえば、夏休み前にもこんなことがあった。

「女の子だよ」

 そんなことを思い起こしていると、先輩が言った。こちらに向けられた顔には、いたずらな笑みが浮かんでいる。

「たまちゃんって、私は呼んでるんだけどね」

「……もしかして、方丈たまきのことですか?」

「あれ、知り合い?」

「知り合いっていうか、同じクラスで、家にも行ったことあります」

 意外な場所で、二人の意外なつながりがわかった。

 ――いや、そんなことはないんじゃないか。

 よくよく考えずとも、方丈の家と市女先輩の家には卵という大きな共通点があったじゃないか。

 いつの日にか聞いてようとして、胸のなかにしまい込んでいたいくつかの問いが、記憶の底からふいに浮かびあがってきた。

「もしかして、先輩って方丈と親戚だったりします?」

「うん、うちが本家で、たまちゃんちは分家ってやつ」

「そう、だったんですか……」

「家の人にはあんまりかかわるなって言われてるんだけど、私はたまちゃんのこと好きなんだ。私より年下だけど、なんでも知ってるし、それにとっても可愛いしね」

 ……いつも白頭巾を被った方丈の素顔が可愛いかどうかはおいて、ということは、方丈の家にある卵も市女先輩の実家、尾形家の信仰が伝わったものなのか。

 以前、方丈は神さまという言葉を口にしていたけれど、あいつも、しんらんさまを信じているのか? 

 いや、そうだとしても、あの白頭巾や卵の模像を見る限り、その信仰がまったく同じ形のまま伝わり、保たれているかまではわからない。現に、先輩はあんな白頭巾を被ってはいない。

 そんなことを頭の片隅で考えつつ、先輩と二人で山の小道を歩いていく。登山用の山とも思えないけれど、草木で荒れ放題となっているわけでもなく、道はそれなりにこなれていて、先輩は少しも迷うようなそぶりを見せない。

 それにしても、先輩はどういうつもりで、俺をこんな場所に連れてきたのだろう。単なる山歩きのためとは思えない。その目的がわからず、少しばかり不安になったころ、道の先に薄緑色をした金網フェンスが見えた。

「もう少しだから」

 と、先輩はポケットから鍵を取り出すと、扉にかけられた錠前を外してしまう。

「なんでこんな場所の鍵なんか持ってるんですか?」

「ここ、うちの山だから」

 生まれて初めて耳にした言葉に驚きながら、扉を開けた先の道を進んでいくと、五つほどの洞穴が開いた山壁に行きついた。

「何ですか、ここ……!」

 感じた驚きのままに、辺りを見まわす。天然の洞窟なのだろうか。だとしても、山崩れか何かが起こってできたもののようには思えない。どの洞穴も外からでは、その先を見通すことができないほどに奥深くへとつづいている。

「ずっと昔のころの遺跡だって。埼玉にも吉見百穴(よしみひゃくあな)って似たような場所があるんだよ」

「はぁ……」

「戦争のときは防空壕に、それより前からも野菜とかの貯蔵庫にも使ってたみたい。だから、なかは夏でもすっごく涼しいよ」

 カバンのなかから懐中電灯を取り出し、先輩は洞穴の一つに、躊躇することなく入っていく。このままついていって大丈夫かなと、少し迷ったものの、俺もそのなかに足を踏み入れた。

「ほんとだ。涼しいし、それにでっかい……」

 暗闇のなか、懐中電灯の光に照らされた道を進む。先輩が言ったとおり、洞穴のなかはひんやりとした空気に満ちていて、半袖だと少し肌寒いほど。湿った気配はあるものの、嫌な感じはしない。むしろ天然の冷蔵庫のなかにいるようで、冷気が熱を持った体に心地よかった。

「少し歩くからね」

 洞穴は少し首をかがめれば歩くのにも苦労はなく、横幅も両手いっぱいほどの広さがある。自然にできたものに、あとから人の手を加えたのだろう。目を凝らして見れば、天井や壁の岩肌には掘ったようなあとがあるし、こうして歩く道も平らにならされている。

 ゆっくりと、十分ほど道を進んだところで、なかだまりのように広い場所に行きついた。よくこの場所を訪れているのか、そこには先輩が持ち込んだらしいレジャーシートに、ランプまでも置かれていた。

「すごいな……」

 バレーボールのコート半面ほどの場所に、ランプから出た光が丸く広がる。ただ、その光も、洞穴のすべてを照らしきることはない。伸びるにしたがって光はか細くなり、より濃い闇のなかへと飲みこまれ、消えてしまう。

 どうやら洞穴の道はここで行き止まりではなく、さらにその奥へとつづいているようだった。

「はい、これ」

 こんな場所があるなんてという感慨を覚えながら、レジャーシートに腰をおろすと、先輩が缶コーヒーを手渡してくれた。舌に感じる甘味に、一口飲んで息がもれた。

「ちょっとは気持ち落ち着いた?」

「はい」

「少し休まないとだめだよ。ましろちゃんが心配なのはわかるし、一生懸命探すのもいいけど、開くん、ずっと思いつめた顔してるし、体だってかなり疲れてるでしょ」

「そう、ですね……」

「開くんがここで倒れちゃったら、元も子もないからね」

 この人には、本当にかなわない。そのやさしさに、涙がこぼれそうになるのを、ぐっとこらえていると、先輩が言った。

「それにしても、どうしてましろちゃんは家出なんかしたのかな?」

 その理由はわかっている。一カ月前の大喧嘩で、俺があいつを深く傷つけたからだ。それをきっかけに、ましろは俺にも、あの家にもあいそをつかしてしまったのかもしれない。

「それだけ?」

 とぎれとぎれに、そのことを口にすると、先輩がさらに問いを重ねた。

 ましろが姿を消した分水嶺はあの大喧嘩かもしれないけれど、それ以前から、俺はましろにあえて……、そう、あえて厳しいことを言ってきた。

 ひきこもりのものの本や、有名人が言うように、俺はましろに対して、甘い態度をとれなかった。

 学校に行かなくていい、そのままの自分でいていいなどとはけして言えなかった。

 確かに、学校でいじめを受けていたり、人間関係のトラブルがあったりしたのであれば、無理にそうしてはならないと思う。

 けれど、ましろの場合はそうではなかった。

 ただ、世界の空気が自分にあわないと、植物が地面に根をはるように、部屋のなかに、その身を落ち着けてしまった。

 そんなましろに俺は口うるさくあれこれと言ってきた。こんなことでは、将来ろくなことにはならないと、脅しのような言葉も口にしたことだってある。

 責任を伴わない、甘い言葉を吐くだけなら、誰にでもできる。けれども、厳しいことを言ってやれるのは家族しかいない。

 俺たちは強くならなくちゃいけなかった。母親に捨てられたんだ。まだまだ子どもなんだからと言ってはいられない。

 今は親代わりをしてくれているばあちゃんだって、俺たちのことをあからさまに迷惑がっているのだから、頼りにならない。

 他人は簡単に人を傷つける。手を差し伸べてくれる、戸部さんのような人はめったにいない。

 家族にも他人にも、守ってくれる人がいないのだから、少しくらいのことでいちいち傷ついていては、この世界では生きていけない。

 頭のどこかでは、ましろに強く迫ってはいけない、学校に行け、この部屋から出ろと強制してはいけないとわかっていた。

 でも、俺はこのままじゃいけないと思っていた。ましろに強く生きてほしかった。その気持ちに嘘はない。あの喧嘩のときだって、そんな気持ちが爆発してしまっただけなんだ……。

「そっか……」

 先輩は、今まで俺がしてきたことをよいとも悪い――本当は、よくないと思っていたのかもしれない――とも言わなかった。

「それで、開くんはさ、どうしたいの?」

 そのかわりに、また別の問いを向けた。

「どうしたいって、妹を見つけたいんです」

 俺の返事に、そうじゃなくてと、先輩は首を振った。

「ましろちゃんを見つけて、どうしたいの?」

「…………」

「もし、ましろちゃんが見つかって家に連れ帰っても、部屋にこもったままなら、何も変わらないんじゃない?」

「それは……」

 発せられた問いに答えられず、頬の古傷に手を当てる。確かに、先輩が言ったように、ましろが見つかったとしても、今のままでは何も変わりはしない。

「開くんはさ、ましろちゃんにできることある?」

「できること、ですか」

 今までの厳しい態度を改め、ましろへの接し方を変えることもできる。けれども、急にそうしたとしても、ましろだって子どもじゃない。むしろ露骨な変化の裏にあるものに、敏感に気づいてしまうだろう。

「じゃあ、ましろちゃんといっしょにしたいことは?」

「……ゲームとか」

 できることから、したいことへ。内容の変わった問いかけに、そんな言葉が口から出てきた。

 あいつはゲームが好きだった。俺も最近、方丈の家でよくやった。

 とはいっても、小うるさかった俺と並んでは、なんの気晴らしにもならないかもしれない。

 でも、少しずつでいいんだ。

 今さら、兄妹仲良くというわけにもいかないけれど、俺たちの関係が今より少しでもよくなっていけばいい……。

 どうすればいいか、はっきり何かが決まったわけではない。ましろだってまだ見つかったわけではないけれど、自分のなかで、これから先への見通しが少しだけついた気がする。

 先輩がこの場所に俺を連れてきてくれたのは、俺を落ち着かせ、そのことに気づかせてくれるためだったのだろう。

「仮になんですけど、先輩にひきこもりの知り合いがいたら、どうしたいですか」

「うーん、私なら……」

 ふと気になって尋ねた問いかけに、先輩は少しの間、天井に目をやったあと、こともなげに言った。

「私ならただ抱きしめてあげたい。ぎゅうっとね」

 単純な、けれども、ひどく先輩らしく答えに、つい笑ってしまった。

「ほら……」

 笑う俺に、先輩は両手をいっぱいに広げてみせた。

「な、何ですか」

「開くんも抱きしめてあげようか?」

 突然の言葉に、頭がショートした。言葉を返すこともできずに、先輩に視線を向ける。

「開くんはかわいいね」

 体をかたくした俺に、先輩は相好を崩した。

「本当は不安や辛い気持ちでいっぱいなのに、いつもそれを隠して強がっている」

「…………」

「辛いときは、素直に辛いって言っていいのに、人に言うことができないんだね」

 ほら、と、先輩が俺の体へと腕を伸ばした。

「先輩……」

 背中にまわされた腕に力が入り、先輩のほうへとぐっと体を引き寄せられる。柔らかな先輩の体が俺の体に合さわり、甘い香りが鼻のなかにやさしく入り込んだ。

 人に抱きしめられるなんて、いつ以来のことだろう。どこか懐かしく、感傷的な気持ちのまま、先輩の腕に体を任せていると、

「ほーら、よしよしよしよし!」

 突然に、俺の髪の毛をぐしゃぐしゃと、かきまわすようになでられた。

「……いや、猛獣のなで方!」

「あ、またツッコミ頑張ったねぇ」

 ほんの数秒前までの、甘い雰囲気は一瞬で消え去ってしまった。お互いに噴き出してしまい、先輩と俺の笑い声が、洞穴のなかでこだました。

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