第三話 皇帝の私室

 早朝から小雨が降る中で薬草の世話を終えた私とシュンレイとホンファは、茶色の作業着に竹の被り笠姿で庭を歩いていた。手と足についた泥を落とすために水で流したので、濡れたまま後宮内の廊下を歩く事はためらわれた。廊下を汚しても許される侍女の身分でも、後で掃除する下女の手間を考えると遠慮してしまう。


「カリン?」

 建物を囲む屋根付きの外廊下から声を掛けられて、見上げると女官長だった。灰緑色の髪を一筋の乱れもなく結い上げ、臙脂色の深衣の襟には、官位を示す金の刺繍。五十を超えていても三十代後半に見えるのは、凛とした空気をまとうせいだろうか。


「はい。何か御用でしょうか」

「ええ。貴女を呼びに行くところでした。噂について話を聞きたいの。シュンレイとホンファは先に部屋へ戻って」

 笑顔で告げられても女官長の言葉はずっしりと重く感じられる。噂というのは、ケイゼンとの婚約話のことだろうか。それとも、調子に乗って続けている腕輪の呪い話のことかもしれないと血の気が引く。


『ごめん、笠をお願い』

『わかった。気を付けてねー』

『部屋で待っていますわよ』

 私から笠を受け取ったシュンレイとホンファの顔は緊張していて、私にも伝染してきた。廊下へと階段を上がり、歩き出す女官長の後ろを私は背筋を伸ばしながら歩き始めた。


      ◆


 後宮の造りは単純に見えて実は内部は複雑で、年に数人の迷子が出る。まずは古参の女官たちが捜索にあたり、それでも見つけられない時には、皇帝陛下が神力で探すこともある。


 女官長は日が入らず、ぼんやりとした魔法灯が照らす暗い廊下を迷いなく歩いていく。どこまで歩くのかと、濡れた足跡を付けた廊下に罪悪感を抱きつつ着いていく。


 やがて立ち止まった女官長は、何もない白い壁に手で触れた。何かを探すような仕草の後、白い壁が音もたてず、扉のように開いた。扉の中は、さらに暗い廊下が続いていて、女官長は中へ。続いて私が入った後、背後で扉が閉まった。


「カリン、心配しないで。今向かっているのは、陛下の私室の一つ。陛下が貴女とどうしてもお話がしたいのですって」

 くすくすと笑う女官長は、凛とした空気が消えて少女のような雰囲気。


「誤解しないでね。陛下はね、私の愛する夫と親友だったの。去年、夫が亡くなるまでは、よく三人でお茶を飲んでいたのよ」

「存じ上げずに申し訳ありません。お悔やみを申し上げます」

 女官長に夫がいたことも、亡くなったことも知らなかった。


「ありがとう。夫が年下だから秘密にしていたのよ。……さぁ、着いた」

 暗い廊下の扉が開かれると、明るい光で目が眩む。目が慣れてくると、白い壁と白い石の床。丸い窓に見えたのは、壁に埋め込まれた水槽。水槽には美しい尾びれを揺らめかせる金魚が優雅に泳いでいる。


 中央に置かれた素朴な円卓で、皇帝陛下がお茶を飲んでいた。冠や龍衣は壁際の衣掛けに置かれていて、白に銀糸の刺繍が施された簡素な衣装でも凛々しい。輝く金髪に青玉のような瞳。四十六歳には到底見えず、三十前後に見える。


明玉ミンユー、手間を掛けてすまない」

「陛下、臣下に謝ってはいけませんと、夫が言っていたでしょう?」

「臣下ではなく、友人だからな」

 気安く言葉を交わして笑い合う二人は、まさに友人の雰囲気で気が引ける。


 皇帝が笑いながら指を鳴らすと、濡れていた私の全身が乾いて泥汚れも消えた。

「あら、陛下。もしかして、廊下も綺麗にされました?」

「ああ、何か都合が悪かったか?」

「久しぶりに床を磨こうかと考えておりましたのに。あれはとても運動になりますのよ」


 女官長は、私が濡らした廊下を掃除しようとしていたのか。いろいろと恐れ多くて、身が細りそう。恐縮する私を円卓の椅子に座らせて、女官長は茶壷から白い茶碗に花茶を注ぐ。甘酸っぱい果実の香りが柔らかに広がると、心が安らいで緊張が解けてきた。


「私は執務室におりますので、何かありましたらお呼び下さい」

「ああ。ありがとう」

 いつもとは違う柔らかな雰囲気で女官長は私にも笑いかけ、扉から退出していった。皇帝と密室で完全に二人きりになって、これまで一度もなかった状況だと気が付いた。第一皇子リュウゼンとのことを思い出して顔が強張る。


「カリン、婚約おめでとう」

 皇帝の声と表情からは、心の底から嬉しいという喜びが伝わってきて、ほっと安堵の息を吐く。お礼を述べようと立ち上がり、床に膝を付こうとして止められた。

「ありがとうございます。素晴らしい祝いの品を頂き、恐悦至極でございます」


「菓子よりも、二人に揃いの宝飾品を贈りたいと思ったのだが、音操オンソウに止められた。男はともかく、女性が身に着ける物は好みの品で無ければ迷惑だと」

「そ、それは……」

「ふむ。やはりオンソウの言葉は間違いないようだな。十人の姉妹に揉まれてきただけのことはある」


 皇帝の近衛兵の一人、オンソウは青みがかった銀髪に碧色の瞳の中性的な痩身の美形。楽器演奏を好み、常に物静かで優雅な所作が後宮の侍女から高い人気を得ている。その物腰が十人姉妹の影響だったとは知らなかった。


「ルーアンがカリンを愛するあまりに、呪いの品を贈ったという噂を聞いたが、それは本当なのか?」

「いえ……それは……私が吐いた嘘です……ルーアンから頂いた腕輪を奪われないようにと……」

「腕輪?」

「はい。こちらです」

 袖の中に隠していた腕輪を露にすると、美しい紅玉と薔薇水晶が輝きを見せた。


「それは……威力の強い護符だな。ルーアンが作ったのか?」

 目を丸くして驚く皇帝の一言で、腕輪が護符と見抜かれたことに気が付いた。

「あ、あの……こ、これは……」

 この国では、魔力があると医官か武官にしかなれないと決まっている。魔力があるとバレたら、ルーアンは文官を辞めさせられてしまうのか。血の気が引いた私に皇帝が笑いかける。


「ルーアンの魔力は、最初に会った時にわかっているから心配するな。おそらく私以外は気が付いていないだろう。リュウゼンも気が付かなかった」

 他者が気づいていないと聞いて、ほっとした。歴代の皇帝には、神力の質や量に差があることは知られている。


「もしもルーアンを文官から外すようなことがあれば、宰相や大臣に私が怒られるぞ。ルーアンが提案してくる挨拶文や手紙の文言は気が利いているから、皆が重宝していてな。幸いにも、龍省だけは魔力による官位の制限は記されていない。何かあれば、それを盾にしてルーアンを守ると約束しよう」


「今夏の女官試験を受けるのか?」

「いいえ。あの……その……ルーアンが帝都に屋敷を建てると……」

「屋敷か。もう場所は決まったか? 希望があれば、どこでも手配するぞ」

 優しく親切な皇帝を騙していることに後ろめたさを感じる。十八になれば、王宮の外へ出て逃げることを考えているのに。


「場所はこれから決める予定です。二人で歩いて、気に入った場所にしようと話をしています」

 それはルーアンの提案で、私はきっぱりと断っている。


 和やかな会話がしばらく続き、ふと皇帝の顔が憂いを帯びた。

「……私はカリンに謝罪しなければならないことがある。青月妃ユーチェンのことだ」

「申し訳ありません。今は何もお聞きしたくありません」

 ユーチェンによって殺された父母のことは、まだ心にわだかまっている。ルーアンの言葉で落ち着いてはいても、思い出すと心が揺れる。ユーチェンの病が完治したことだけはルーアンに聞いて知っている。


「そうか。そうだな。……では、何か困っていることはないか?」

「……困りごとはないのですが、お願いがございます」


「ああ、何でも聞こう」

「王宮で隔離している奇病の患者の症状を、私が直接確認できないでしょうか」

「おっと、その件か……何でもと言った手前、叶えてはやりたいが…………実は私も確認出来てはいないのだ。私が見舞いに行くと本人たちに完全拒否された。部屋に入ったら死ぬと叫ばれては、無理に近づくこともできなくてな」

 だから香魔へ薬を頼むこともできないと、言外から察することができた。


「カリンが顔を見られるのも厄介だな……。医術師と相談して、睡眠薬か何かで眠っている間に確認するとしよう。薬を創るのか?」

「創薬はお約束できません。ただ、何か出来るのではないかという私のワガママでございます」


「それはワガママとは言わないぞ。カリンは優しいな」

「私は……優しくなんてありません」

 この突き動かされるような衝動が、優しさではないと今、気が付いた。久しぶりに創薬魔法を使って、あの高揚感を思い出した私自身が、薬を創る大義名分を探しているだけ。


「カリン、自分に厳し過ぎるぞ。もっと自分に優しくなっていい。……そうだな……いつでも創薬できるように、ルーアンに薬師部屋の鍵を渡しておこう」

「ルーアンに?」

「ああ。ルーアンと一緒なら安心できる。あいつは良い男だ」

 そう断言した皇帝は、私に優しく微笑みかけた。

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