第八話 胡麻の饅頭

 肩を温かい何かが包み込み、体が優しく揺らされて墨と竹の香りが心をくすぐった。微かな薄荷に似た香りがちらりと掠める。

「カリン! 大丈夫ですか?」

 遠く聞こえるのはルーアンの声。顔を上げて重いまぶたを開くと、赤い瞳のルーアンが目の前にいた。

「……ここは?」

 寝ぼけた頭が状況を理解できなかった。私は何故、床で座り込んでいるのか。何故、ルーアンが目の前にいるのか。


「第三書物庫の特別室です。動くことができるのなら出ましょう」

 ルーアンに支えられながら立ち上がり、壁に寄り掛かりながら息を整える。壁に掛けられた虫除けの薬玉の匂いが少しだけ意識をはっきりとさせてくれると同時に、恐怖の記憶も蘇って体が震えた。


 棚に片手を伸ばしたルーアンは一冊の本を手に取った。

「本を借りたいと言って、この部屋の鍵を開けました。カリンの姿はまだ隠蔽されたままで私以外の誰にも見えません。外に出てから話をしましょう」

「そ、外?」

「外には誰もいません。私が必ず護りますから落ち着いて下さい」

 そう言ったルーアンは私の手をそっと握りしめた。筆の使い過ぎなのか、あちこち硬い指の感触と墨の匂い。そして竹の香りが私の体の震えを止めた。


 赤い瞳がすっと赤茶色へと変化していく。不思議に思いながらも何も言葉にできなくて、軽く手を繋がれるまま扉の外へと出た。廊下には人が全くおらず、窓の外はまだ明るい。先程の件が起きてから大して時間は経っていないのかもしれない。


 建物の玄関近くで待っている書物番の文官が、ルーアンの姿を見て姿勢を正す。私の姿は本当に見えていないらしく、全く視線が向けられない。

「お探しの本は見つかりましたか?」

「はい。こちらの本です。貴重な本ですから必ず返却いたします」

 書物番が恭しく鍵を受け取って本の題名を書き取り、私たちは第三書物庫を後にした。


      ◆


 手を引かれるようにして歩いていても、周囲の人間は全く私のことを気にしていない。本当に姿が見えないのかと不思議に思う。

 ルーアンは人の好さそうな笑顔を張り付けたまま、行き交う人々に丁寧に会釈する。時には声を出して挨拶を交わす。得意満面な顔や意地悪な笑顔は一瞬たりとも表に現れないのが凄い。


 ルーアンの職務室へと入った途端、私の緊張が途切れて座り込んだ。

「カリンっ?」

「あ、あの、大丈夫です。安心したら腰が抜けました」

 ルーアンの慌てた表情が可笑しくて、ふと笑ってしまう。助けてくれた人に失礼だと気が付いて口を手で覆ってみても遅い。


「笑えるのなら、ひとまず安心です。何があったか話せることだけ教えて頂けませんか?」

 ルーアンは私を執務机の椅子に座らせて、壁際の机に置かれた茶壺ちゃふうと大きな茶杯を持って戻ってきた。


「白湯です」

 茶壺から茶杯に注がれたお湯は温かい。勧められて一口飲むとほっと安堵の息が漏れた。

「引き出しに茶葉が用意されているのですが、さっぱりわからないのですよ」

「見せて頂いてもいいですか?」


 椅子から立ち上がり、引き出しの中を確認すると、刻んで乾燥させた花や葉、果実が一種類ずつ透明な瓶に入っている。

「……花茶を淹れてもいいですか?」

「どうぞ。お好きなように。お湯は私の魔法で沸かします」

 瓶のフタを開けると、〝薬園の乙女〟になってからは嗅いだことのない上質な匂いがふわりと広がって心地いい。引き出しには軽量する為の大小の枡、混合した物を入れる空き瓶も入っていた。


「ラクリの花と葉。リリンとカシルの実。サントとジンの葉……」

 八種類の材料を混ぜて瓶に入れ、振って混ぜると疲労回復の効果がある花茶になる。ギリの根があればもっと効くのにと残念で仕方ない。

「出来ました。疲労回復の効果がある花茶です」

 茶壺に小さな枡で測った茶葉を入れ、沸騰直前のお湯を入れて蒸す。心の中で百を数えて茶杯に注ぐと、美しい夕焼け色の花茶が華やかで瑞々しい芳香を放ちながら広がる。香りだけでも気分が落ち着く。


 ルーアンは私を再び執務机の椅子に座らせ、自分は黒い箱のような折り畳み式の椅子へと腰かけた。花茶が美味しいと言って飲みながら、何も聞こうとはしない。私が話し出すのを待っているのかもしれない。


 気分が落ち着いた私は、話をしようと決意して口を開いた。

「……ありがとうございます。頂いた護符のおかげで助かりました」

 袖をめくり上げると腕輪は消えていた。あれ程美しい宝玉が無くなってしまったことが惜しい気がする。

「これは秘密の話ですが、宝玉は精霊が魔法行使の代償として持ち去るのですよ。残念ながら私には精霊の姿は見えないのですが」

「私も姿は見えません」

 魔力量が高くても精霊の姿が見えることは少ない。私の母のように魔力はさほど持っていなくても、その姿を見て言葉を交わす〝精霊使い〟になれることもある。

 

「あの……実は第一皇子が……」

 香魔のことは避け、私は見聞きしたことをルーアンに話した。第一皇子が私を正妃にしようとしているなんて考えたこともなかったし、皇子の二面性にも恐怖しか感じていない。


「第一皇子は明日から地方視察の旅に出ます。日程は二箇月ですから、その間に逃れる方法を考えなければなりませんね」

「でも……どうやって逃れたらいいのか……絶対に青月妃にはなりたくありません」

 皇帝の正妃の証である〝華蝶のかんざし〟が欲しいとは思わない。女性を物のように扱う皇子と結婚することを想像するだけで、体が震える。


「完全に逃げる方法を私も考えます。皇子がいない間も後宮内でも必ず護符を身に着けるようにしてください。他の護身魔法の護符も作りましょう」

「ありがとうございます。……私についていた護衛は、皇子の命を受けていたのでしょうか」

「いえ。違うと思いますよ。私が駆け付けた時、あの部屋の鍵を持ち出そうとしていましたから。皇子が貴女を部屋に閉じ込めたと思っていたのではないでしょうか」


「そういえば……何故、貴方は私があの部屋にいるとわかったのですか?」

「護符が発動した時、私に場所が通知されるように術式を組み込んでありました」

「場所を?」

「ええ。消費したら新しい腕輪が必要になると思いまして」

 そう言って、ルーアンは懐から布袋を取り出し、消えてしまった護符によく似た腕輪を取り出した。


「今回は時間がありましたので、良く似た色の薔薇水晶で揃えました」

 うきうきとした声を聞いて、過剰に期待してしまった自分の心を殴りつける。きっとルーアンは私を助ける為ではなく新しい護符を作るのが目的。そう理解すると受け取る遠慮が消え去った。

「ありがとうございます。ありがたく使わせていただきます」


 新しい腕輪を左手首に付けて袖で隠した時、唐突に部屋の扉が勢いよく開いた。

「ルーアン! 頼まれてた…………カリン?」

 茶色い紙袋を抱えているのは茶色の短髪に翡翠色の瞳。宰相付の護衛兵ハオだった。休日だったのか、濃茶色の上着に黒の脚衣という普段着姿。王宮の外に出ていたのだろう。

「こ、こんにちは……」

 私が王宮内にいた頃、度々顔を合わせることがあって名前も顔も覚えられている。子犬のように明るく元気すぎる行動と可愛らしい印象の美形は侍女の中でも度々話題になっていた。


「えーっと。カリンが何故ここに?」

「本の話ですよ。貴方も加わりますか?」

 ルーアンが机の上に置いていた本を示すと、ハオはまるで子犬のように勢いよく首を横に振った。

「それは勘弁。俺が本嫌いなの知ってるっしょ? 本見るだけで背筋が寒くなるって。あ、これ、頼まれてた品!」

 にこにこと笑いながら部屋に入ってきたハオは、手に持っていた紙袋を机の上に置いた。


「カリンがここにいたことは秘密にしてくださいね」

「わかった。秘密にしとく!」

 人の好さそうな笑顔の仮面を着けたルーアンのお願いに、妙に元気な笑顔のハオが答えて部屋を出て行った。


「……あ、あの……本当に黙っていて下さるでしょうか……」

「大丈夫ですよ。ハオの御家族は全員詩家でしてね。季節ごとに実家へ送る手紙の文面を私が考えています」

 名前を聞くと、私でも知っている有名な詩人ばかりでびっくりした。それでは武官のハオは家族から浮いてしまっているのかも。


「手紙の代筆ではないのですね」

「ハオの字は非常に美しいですよ。文章が壊滅的なだけで。ですから私との約束を破ることはないでしょう。……おや?」

 茶色の袋を開けたルーアンが目をしばたたかせた。


「……私は胡麻団子をお願いしたはずなのですが、これは蒸し饅頭ですね……」

「胡麻団子がお好きなのですか?」

「……はい」

 残念と呟きながら、ルーアンが油紙で包まれた薄茶色の冷えた蒸し饅頭を取り出して二つに割った。ふわりと漂うのは美味しそうな胡麻餡の匂い。


 その匂いに釣られたのか、私のお腹が盛大に鳴り響いて羞恥が頬に集まっていく。

「……た、食べますか?」

 語尾を笑いで震わせながら、ルーアンが魔法で温めた饅頭を私に差し出す。受け取ったら負けと思いつつも、ほかほかと湯気を上げつつ美味しそうな匂いをまき散らす大好物の誘惑にどうしても勝てなかった。


 袋の中にはまだ入っているようで、ルーアンも饅頭を手に取った。

「火と光の精霊に感謝を」

 その呟きでルーアンが火と光の魔力属性とわかる。光属性はとても珍しく、一族には誰もいない。


「風と水の精霊に感謝します」 

 久しぶりに言葉として発した食事の挨拶が心を清々しさで包む。村を出てから、一度も音に出すことは出来なかった。


 恐ろしく不快な記憶の匂いは、美味しい匂いと墨と竹の香りが拭い去り、私は幸せの味を噛みしめた。

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