第七話 無香の香油
結局私はルーアン特製の腕輪を押し付けられてしまって、薔薇水晶と紅玉の輝きが左手首を彩っている。ずっしりとした重さを感じるというのに着けてみると羽根のように軽いのは私専用の証。他者が持とうとすると極端に重くなるらしい。
後宮内ではルーアンから貰った布袋に入れて首から下げ、後宮の外に出る時は腕に付けている。危険な目に合わなければ使うことはない。これまで通りに注意していれば大丈夫だろうと思いながら十日が過ぎた。
医局に薬草を届けた日の夜、シュンレイとホンファと一緒に夕食を取っている際にシュンレイが気が付いた。
「カリン、その腕輪どうしたの?」
「あ!」
軽すぎて外すのを忘れていた。しまったと思っても、見られてしまった物は取り返しがつかない。覗き込む二人に改めてそっと見せると二人が目を輝かせた。
「あら、これはとっても上質なのではないかしら」
「うわー。高そー。ね、どうしたの?」
二人に手招きして、顔を寄せて小声で話す。
『え、えーっと。……も、もらったの……』
『きゃーっ! 誰から誰から?』
『なぁに? 恋人から?』
『こ、恋人っ? ち、ち、ち、違いますっ』
口の端を上げた意地悪な笑顔が思い浮かんでも、心は別にときめかない。私は押し付けられて仕方なく受け取っただけ。
『あ、そうなんだー。で、誰から? 誰から? 教えてよー』
どきどきと頬が熱いのは、キラキラと輝く瞳の二人に迫られているから。これは逃れようがないと諦めて、誰にも言わないと約束させる。
『ぶ、文官のルーアン』
『灰被りの人? うわ、意外ー。あの人、こんな素敵な贈り物とかしちゃうんだー。有能ってやっぱ違うなー。おめでとー! 将来、絶対に宰相か大臣じゃん』
『びっくりするくらい、素敵な方なのねぇ』
恋人ではないと否定しても二人の盛り上がりは治まらない。私は諦めて食事を続けることにした。
「あの人、過去二十年分の王宮行事の記録を全部記憶してるんだって。前は行事前になると担当になった文官たちが過去の記録を書物庫から探し出して一から準備してたんだけど、今では書物の場所も行事の内容もあの人に聞くだけで教えてもらえるから楽になったって聞いた」
シュンレイの情報源は友人の文官からだろうか。王宮行事は先例主義で、過去の儀式や行事の手順を踏襲することが最重視されている。ところが文官たちは互いの足を引っ張り合うので、過去の記録が保管されている場所を教えなかったり、重要な個所をワザとぼかして記録したりと、嫌がらせだらけで仕事がなかなか進まなかった。ルーアンが文官に登用されてから劇的に改善したらしい。
「……それって、一人に物凄く負担掛けてない? 急に倒れたら替わりがいないってことでしょ」
「それがねー。二箇月先までの行事毎の手順書を用意してるんだって。あの人が倒れても、その手順書があれば大体わかるし、過去の記録がどこに保管されてるかも書いてあるって。滅茶苦茶有能じゃない?」
「そうね」
笑顔で相槌を打ちながら、何故かルーアンが心配になってきた。日中は一人で沢山の仕事をして、夜は遅くまで書物庫で試験勉強。強い魔力があったとしても、疲弊してしまいそう。
疲労回復の為の滋養の薬を作ってあげたい。私はそんなことを考えながら、ルーアンの話題で盛り上がる二人の話を聞いていた。
◆
医局へ薬草を届けた帰り道、私はシュンレイとホンファの二人と別れて第三書物庫へと本を返却する為に歩いていた。時々、草木を気にするふりをして背後を伺ってみても護衛の姿は確認できず、あれはルーアンの嘘ではなかったのかという疑惑がじわりと心に滲む。
本を戻して、次の本を借りようとした時、背後から声を掛けられた。
「カリン! 久しぶりだ。元気にしていたか?」
輝く金色の短髪に青い瞳。優しく微笑むのは第一皇子リュウゼン。皇帝とよく似た面差しで背が高く、紺色の上着に白い脚衣の皇子用の兵服を着用している。
第一皇子と第二皇子は十九歳、第三王子は十八歳。皇帝には長らく子供ができず、突然三人の月妃が次々と男子を産んだ。第一皇子の母は赤月妃、第二皇子の母は黒月妃、第三皇子の母は青月妃と複雑。
十八歳の成人を迎えた皇子たちは王宮で生活しているので接点はないものの、リュウゼンは私の姿を見ると声を掛けてくる。
「おひさしぶりでございます」
袖で手を隠し、床に膝をついて頭を下げると立ち上がるようにと指示された。
「カリン、内密に教えて欲しいことがあるのだが、時間はあるか?」
皇帝によく似た優しい笑顔を見せられると、断りにくい。そもそも、侍女の身分で皇子の依頼を断ることはできない。
誰にも聞かれたくないからとリュウゼンは言い、貴重な原本が保管されている部屋へと私を招き入れた。
初めて入った保管部屋は温度と湿度が調整され、虫除けの匂いが充満していた。これはつらいと口で浅く息をして極力鼻を使わないようにする。
先導して入った皇子が素早く私の背後に回って後ろ手で扉を閉めた時、私はやっと自分の迂闊さに気が付いた。窓はないかとそっと見回しても風を通す為のごく小さな窓しかなく、しかも今はきっちりと閉められている。
私が身構えてもリュウゼンの微笑みは優しいままで崩れない。
「警戒しないでくれ。この話は誰にも聞かせることはできない。カリン、無粋な質問ですまないが、君が使っている香油を教えてくれないか?」
「香油……ですか?」
何を言われるのかと緊張していたのに、全く想定外の質問で驚いた。
「私はいつも君から、とても良い匂いを感じている。私の婚約者が、妹に気を使っているのか同じ香りをまとっていてね……正直に言うと、妹のように感じてしまっている。違う香りにしてくれれば、私の気持ちも少しは変えられるかもしれない。だから、君が何を使っているのか知りたい」
公主と同じ香りをまとう宰相の娘ランレイを思い出し、妹と同一視されてしまうのは仕方ないかもしれないと、初めて憐れみを感じる。
「……あの……申し訳ありませんが、私は香りのない油を使っています。石けんも香りのない物です」
リュウゼンの力になりたいと思っても、私は普段、香りの入っていない物を使っている。何か勧められる良い香りは無いかと思考を巡らせていると手を掴まれた。
「本当に? 咲き誇る花のような良い匂いなのに? ……〝香魔〟だからかな?」
そっと手を握られて囁かれた言葉に戦慄する。内心かなり慌てながらも手を引き抜いて一歩離れた。
「恐れ入りますが、その言葉は表で使うべきではありません」
気持ち悪い。人に手を握られて、初めて感じた感情が自分でも恐ろしい。リュウゼンがまとう香りは重く、苔と動物性の匂いと香辛料の刺激が攻撃的で、くらりとめまいがした。
「そうかな? ……私の代になったら、素晴らしい一族だと公表して称賛したいと考えている」
それは困る。私たちの一族の特殊能力が知られれば、絶対に略奪されて争いに巻き込まれる。遥かな昔、皇帝に保護される前の一族の歴史は悲惨なものだった。第一皇子なら知っているはず。
「君の素晴らしい能力を隠す必要はない。思うがままに振る舞えばいい。香りも薬も自由に作って構わない」
優しい微笑みが怖いと初めて感じた。何度も声を掛けられたことはあったけれど、こんな人だっただろうか。
これ以上、この人の話を聞いてはいけない。心の奥底から湧き上がる恐怖に耐え切れず、私は袖に隠した護符の紅玉を爪で弾いた。赤い光が煌めいた途端、リュウゼンが目を見開いて驚きの顔を見せた。
「カリン?」
リュウゼンは訝し気に周囲を見回す。どうやら本当に私の姿は見えていないらしい。じりじりと慎重に扉へと向かおうとした時、リュウゼンが舌打ちをして指を鳴らした。まさか気付かれたかと動きを止めると扉が開いて、皇子の側近が部屋の中に入ってきた。
「リュウゼン様、何か不都合がありましたでしょうか」
落ち着いた鉄紺色の上着に黒の脚衣という兵服。茶色の髪に緑の瞳の側近が声を掛け、リュウゼンが横柄な態度で溜息を吐く。先程の優しい笑顔は完全に消え去った。
「カリンに逃げられた」
「まさか。我々が入り口におりましたのに」
「それは気にせずとも良い。特別な女だからな。……しかし、可愛い女だ。ああ、そういえば、あの不思議な香りは体臭らしい。香りの無い石けんと香油を使っているそうだ」
「カリン様ご自身から香っているということですか。それでは再現ができませんね」
「唯一無二の香りとは、まさに私の隣に立つにふさわしい女だな」
皇子の隣? 考えたこともなかった光景が頭に浮かんで恐ろしい。再現とは何のことなのか、全く理解できずにただ足が震える。
「婚約者のランレイ様はどうされるのですか?」
「皇子であれば誰でも良いと考える女に〝華蝶のかんざし〟は渡さない。私の青月妃になるのはカリンだ」
「ですが、カリン様には父君がいらっしゃいません」
「皇子という身分ではなく、皇帝になれば娶ることができる。それまでは秘密の関係を持つしかないな」
秘密の関係。その意味を理解したくはなかった。自分自身の身を抱きながら、二人から遠ざかる。
「明日からの視察に連れて行こうと思っていたが当てが外れた。他の女で代用するから、適当な女官を見繕ってくれ。侍女は口が軽いから避けろ」
「御意」
何故、二人が動きやすい兵服だったのか理解できた。私を無理矢理にでも視察に連れていこうとしたに違いない。二人が扉の外へと出ていき、がちゃりと鍵が掛けられる音が部屋の中に響く。
「……嘘……」
慌てて駆け寄って、扉を押しても引いても動かない。他に出入り口はないかとあちこちを探しても換気用の窓しかなく、とても人間が通れる大きさではなかった。ここから叫んでも外に聞こえるかどうかわからないし、リュウゼンに見つかったら連れていかれてしまう。
どうすればいいのか途方に暮れて部屋の隅で座り込み、光り続ける腕輪の紅玉に手を触れると温かさに涙が零れる。
万が一にも残り一年以内に第一王子が皇帝の位につけば、逃げられない。
恐怖と絶望でぐるぐると回る思考を抱えて、私は泣き続けた。
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