第六話 護符の腕輪
驚いたことにルーアンは窓枠に片手を付き、軽々と低木も跳び越えて私の隣へと音も無く降り立った。墨と竹の爽やかな香りがふわりとくすぐったい。
「……す、凄いですね」
「あまり上品な家の出ではありませんから」
そうは言っても、窓から出入りする家はないと思う。深衣に乱れの一つもないのが何となく悔しい。
「カリン、この道は第三書庫まで遠回りではありませんか?」
「目立ちたくありませんので」
「その装束を着ていれば、どこを歩いていても目立つでしょう」
「それは……そうなんですが……多少は目立たないかなと」
人の好さそうな笑顔を張り付けたルーアンと何気ない会話を交わしながら並んで歩く。
第三書物庫は医局から近いためなのか医術や薬の本が多数保管されている。火事を防ぐ為、水をたっぷりと含む燃えにくい木々が建物の周囲を囲み、さらに堀が作られている。
入り口には兵士が二人。いつもどおりに会釈すると笑顔が返される。この第三書物庫に訪れる女性は殆どいないと以前聞いた。侍女の八割は読み書きができず、読み書き必須の女官たちは、手紙の代筆に役立つ物語や伝記が多い第二書物庫へと向かうことが多い。
「おや。貴女は常連ですか」
笑いながらルーアンは懐から身分証である小さな木片を取り出した。所属を示す神獣の紋章が彫られ、その名が刻まれている。
「確認致しました。どうぞお入りください」
示された木札を見た兵士が姿勢を正してルーアンに向き合う。普段の気さくな態度とは違う緊張した面持ちを見て驚きが隠せない。もしかしたらルーアンは相当上の地位だったりするのだろうか。私の位置からは紋章が見えなかった。
建物の中は、黒く艶のある柱と廊下。多数の魔法灯がぼんやりとした光で周囲を照らしている。太陽の光で劣化することを防ぐ為、この建物には風を通す為の最低限の窓のみが作られている。早足で廊下を歩くのは医官ばかりで文官や侍女は一人もいない。
「いつもは何を読まれているのかお聞きしても?」
「あ、あの、薬草や薬の本です。何に使われるのか知っていれば、育てる際にも気を付けることができるのではないかと考えています」
「職務熱心なのですね」
「いえ。そ、そう言う訳では……」
人の好さ全開の笑顔で褒められると調子が狂う。元の表情との違いに戸惑いつつ、何とも言えないむずがゆさを感じる。
巨大な部屋の中には無数の書架や引き出しが並び、古書独特の匂いが充満している。どちらかというと不快寄りの匂いでも、心地よく感じるのは何故だろう。侍女の身分で借りることができるのは複製本のみ。貴重な本はその場で読むことだけが許されている。
目的の薬草の本が並ぶ一角で、私はルーアンに別れを告げる。
「あ、あの、私はここで……」
「偶然ですね。私が読もうとしている本もこちらです」
そう言ってルーアンも本が無数に並ぶ書架の間の通路を曲がった。正直言って、そろそろ解放して欲しい。はっきり言った方がいいかと心に決めて口に出そうとした時、すっと赤い光が煌めいて、ルーアンの人の好さそうな笑顔が崩れた。赤茶色の瞳がすっと鋭さを増し、薄い微笑みに凛々しさを感じてその違いに驚く。
「防音結界です。……カリン。後を付けられていたのを知っていますか?」
「え?」
全く想像もしていなかったことを告げられて、血の気が一気に引いていく。
「気が付いていない、と……害意は感じなかったので、護衛でしょうか」
あごに指を当て、ルーアンが思案顔になる。
「護衛? どうして……? まさか……」
もしかしたら皇帝陛下が私に護衛を付けていたのだろうか。そう考えると、私が王宮内で何度も身の危険から運良く逃げられたと思っていたことは、護衛の見えない助けがあったのかもしれない。
「……まぁいいでしょう。あまり深入りはしないことに致しましょう」
ルーアンは左の袖をめくり、手首に付けていた透明な玉が連なる腕輪を外して私に差し出した。透明な玉の中、綺麗な赤い玉が一つだけ混ざっている。
「私が作った護符です。身の危険を感じた時は、この紅玉を指ではじいてください。この紅玉が光っている間、周囲の人間から姿が見えなくなる効果があります」
そんな凄い効果がある護符を作ることができるのなら魔術師として非常に優秀と私でもわかる。赤い玉が紅玉と聞いて、ならば他の玉は水晶かと推測できた。高価な品を気軽に受け取っていいのかどうか迷う。
「え……そんな……」
「貸すだけですよ。今夜、返して頂きます」
「あ。……はい。お借りします。ありがとうございます」
ケチくさい。ふとそんな失礼なことを思ってしまった。受け取って左の手首に付けると大きすぎて手から抜け落ちそうになる。慌てて軽く手を開くことでぎりぎり落とさずに済んだ。腕輪からほんのりと感じた体温と墨と竹の香りが、不思議と心を落ち着けてくれる。
「特に使うことはないとは思いますが、気休めですね。防音結界を解きます」
再び赤い光が煌めいてルーアンの顔つきが変わり、書架にあった本へと手が伸びる。
「ああ、私が探していた本がありました。それでは、私はお先に失礼します」
本を一冊手にしたルーアンは、人の好さそうな笑顔を貼りつけて立ち去った。
護衛が見ているのかもしれないと思うと、立てられた本の背表紙を見ても集中できない。積まれた冊子を手に取ってぱらぱらとめくる。
私は気が付いていなかったのだから、わざわざ教えてくれる必要は無かったのに。そうは思っても全く知らない状態で王宮の外に出ていたら、追跡される可能性は高い。残り一年の間に、どうやって護衛を振り切るか手段を考えておく為には知ってよかったのかもしれない。
面倒が増えた。そんなことを考えつつ、私はかなり古そうな匂いのする本を一冊手に取った。
◆
本を借りて後宮へ戻り、部屋へ入ると誰もいなかった。他の侍女仲間は食事部屋でお茶を飲みながら休憩しているのかもしれない。まだ日は高く、日のあたらない窓際でも十分に本を読む明るさがある。
窓からは花が咲く華やかな庭。咲き誇る花だけでなく周囲で密やかに咲く花も、香りや薬の材料として使えることを私は知っている。春にしては冷やりとした風が吹き抜けて、花だけでなく草木の混じった匂いに心が躍る。
あと一年を無事に過ごせば外に出る事ができる。その希望だけを胸に耐えてきた。後宮を出て自由になりたい。それだけが今の夢。
いつもと違う髪型が気になって左手を上げた時、護符の腕輪が澄んだ音を立てた。ランレイや侍女たちの嫌がらせは絶えず行われているから、きっと護衛は後宮の中にはいないのだろう。嫌がらせといっても私が一人の時にしか行われないし、はっきりいって子供の悪戯の域をでないから耐えられる。それよりもつらいのは、憐れみの視線。憐れみを受ける程、私は可哀想な境遇ではないと言いたくても、それを主張すればきっと強がりだと受け止められるだけ。
他人から可哀想だと思われ続けていることが本当に苛立たしい。皇子の婚約者になれなかったことも、父母を事故で失ったことも、時間を掛けて独りで乗り越えたのに、私が不運な過去として葬った記憶を掘り返され投げつけられている気分になる。
溜息を吐いて開いた本は、百年近く前に書かれた薬の本だった。使われなくなった文字があちこちに使われていて、解読する時間が掛かる。これはきっと読みでがあると、私は本の世界に没頭した。
◆
深夜、私は白い夜着に淡い茜色の深衣を羽織って、後宮の裏庭へと訪れた。白い月は少し欠けていても、まだその光は優しく草木を照らし出している。
吹き抜けた風の冷たさに体を震わせた時、ルーアンが姿を現した。
「おや。お待たせしてしまったでしょうか」
「今来た所です。ありがとうございました」
白い手巾に包んでいた腕輪を差し出すと、骨ばった指が腕輪を摘まみ上げて左手へと着ける。改めて見るルーアンの手は大きくて、筆を使うことがよくわかる。
今なら〝清麗の雫〟のことを聞けるだろうかと口を開きかけた時、ルーアンは深衣の懐から布袋を取り出した。
「こちらはカリン専用に調整した護符です。差し上げますからどうぞ」
驚く私に、生き生きとした得意満面の笑顔のルーアンは桃色と赤い玉が連なる腕輪を見せた。
「これは特級の薔薇水晶、これは紅玉。寸法も合わせてありますよ。急ごしらえですが姿を消すだけでなく、匂いと体温も完全に消すようにしました」
ルーアンの声がうきうきと弾んでいるように聞こえるのは気のせいだろうか。美しく濃い桃色で無傷の薔薇水晶は初めて見るもので、宝石類に興味のない私でも特別な品だと一目でわかる。
「え……そんな高価な物を頂けません……」
ルーアンは全然ケチではなかった。心の中で全力で謝りながら、どうやって受け取らずに逃げるか考える。一時的に借りるとしても、傷をつけてしまいそうで怖い。
「それは困りましたね。カリン専用に作りましたので、他の誰も使えません」
口を引き結ぶルーアンの顔を見て、これは完全に拗ねていると直感した。直前の得意満面の笑みとの落差に困惑しつつ、可愛いとちょっぴり思った自分の心に愕然とする。
「あ、あの……私が代金をお支払いできる金額でしょうか?」
「これは値が付けられません。この薔薇水晶は私が子供の頃に一粒ずつ買い集めたものでしてね。一粒ずつ色が微妙に違うでしょう? 同じ色がありませんので、色が薄い玉から濃い玉へと繋いで紅玉の赤へと至る意匠にしています」
言われて見れば、月灯りの下でも微妙に色が異なっているのがわかった。あまりにも自然な美しさで気が付かなかった。
「子供の頃の大事な思い出の品を、私に渡しても良いのですか?」
「薔薇水晶はまだ沢山持っています。実は昔から
「あの……どうして私に贈って下さるのですか?」
「どうして? そうですね。何故でしょうか?」
あごに指をあててルーアンが首を傾げる。私に聞かれても、理由なんてわかるわけがない。風が草木を揺らし、しばらく考え込んでいたルーアンがやっと口を開く。
「……同じ魔力持ちという仲間意識のようなものでしょうか。これまで私と同程度の魔力量を持つ者はいませんでしたので」
「御厚意は有難いのですが、私は代金をお支払いすることぐらいしか貴方にお返しできません」
「自慢ではありませんが金銭には全く不自由はしていませんし、カリンからお返しを期待はしていません。そうですね。出来ればこの護符を消費して頂いて、また新しい護符を作らせて頂けると嬉しいです」
「消費?」
「人間一人の姿を消す私の魔法はとても強力なので、この宝玉程度では一回分しか持ちません。使うと消えます」
得意満面の笑みで語られた言葉の意味を理解した私が半眼になるのは許して欲しい。
「つまり、危険な目にあって消費しろと?」
「おや? ……………………そうなりますね」
目を見開いて、それは本意ではなかったという驚き顔をされても遅い。
「嫌です。お断りします!」
私はその場から逃げることにした。
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