第九話 微量の誘惑

 月に一度、後宮内の大広間で出入り業者たちが市を開く。板張りの床の上には、組立式の棚や陳列台が置かれ、日用品から贅沢品まで女性向けの色あざやかな品々が並ぶ。商店の売り子は元侍女が多く、勝手知ったる雰囲気で常に笑いが絶えず賑やか。


 出店の間に作られた通路を歩きながら、様々な品を見る。平民では絶対に手が出ない価格の豪華な深衣や髪飾りは、その華やかさで目を引き付ける為の商品で、実際に並ぶのは私たちの給金でも買える物ばかり。


「カリン、何買うのー?」

「いつも通り、香油と石けんかな。あと手巾ハンカチ。シュンレイは?」

「髪飾り! この前、ホンファの言う通りにいつもの髪型で会いにいったら可愛いって言われたの! だから大人しめの髪飾り付けたらもっと可愛いって言ってもらえるかなーって!」


「ホンファは何買うの?」

「やっぱり香油よねぇ。あと化粧水かしら。最近、支給品の化粧水が合わないのよねぇ」

 香油や化粧水、化粧品、衣類や下着等の必需品はすべて一律の品が外勤の侍女には支給されている。もしも気に入らなければ、専用の衣服以外は自分で購入して使うことが許されていた。


「あー、何かわかる。化粧水、なんか変わったよね」

「そうなの?」

「何っていったらいいのかしら……前は化粧水だけでもしっとりしてたのに、今の化粧水は乾燥してしまうのよ。カリンは感じない?」

「肌が結構丈夫だから、わからなかった」

 支給される化粧水の香料が私には強すぎて、空き瓶に後宮の裏庭で咲く花で作った化粧水を詰めて使っているとは言えない。未使用の化粧水は、浴場に置いておけば誰かが持って行ってくれる。


 化粧品を後宮へ納めている店が広い一角を占めていた。黒い布が敷き詰められた棚の上、美しい瓶に入った化粧品が宝石のようにきらきらと輝いている。良く見てみると、棚に小さな魔法灯が付けられているからだとわかった。大勢の侍女たちが化粧水の見本を手に取って試している。


 三人で化粧水を見ていると、女性が近づいてきた。

「いらっしゃいませ。本日は何をお求めですか?」

 しっとりとした声の美女は初めて見る顔。いつも商店の奥さんが精一杯着飾って売り子として座っているのに、すらりと背が高く簡素な黒の筒袖の上下を着用している。歳の頃は三十前後。群青色の髪に青い瞳。美女だというのに不思議と存在感が薄く、明日には顔を忘れているかもしれない。

 

「化粧水を見に来ましたー」

 シュンレイが元気に答えると女性が微笑みをさらに柔らかくした。

「可愛らしい皆様には、特別なお品をご紹介いたしましょうね。こちら新作の見本ですのよ。もしも気に入って頂けたらお安く致しますから、どうぞ試してみて」

 女性は並べられている商品ではなく、鞄から化粧水の瓶を取り出した。

 

「あ、じゃあ、少しだけ」

 シュンレイの手のひらに化粧水が数滴落とされた途端、私は反射的にシュンレイの手を掴んでいた。


「カ、カリン? どしたの?」

「……え、えーっと……」

 化粧水からは、ごく微量の麻薬の匂いが漂う。この化粧水を何度も使うとやめられなくなって中毒症状を起こす可能性がある。咄嗟に止めてはみたものの、どう言えばいいのかわからない。


「どうなさいました?」

 女性の顔は笑っているのに、目が私の顔を観察している。この人は麻薬が入っているのを知っていると直感して頭に血が昇った。


「化粧水に麻薬を仕込んで、何をするつもりですか!」

 女性から瓶を奪い取り、どうにでもなれと周囲に聞こえるように叫ぶと女性がうろたえた。周囲にいた侍女や売り子の視線が集まっているのが痛い程わかる。


「な、何をおっしゃるのです? 酷い言いがかりです!」

「言いがかり? それではこの化粧水を医局に持ち込んで調べて頂きましょう!」

 女性と叫び合う間に、何が起きたのかと侍女たちが集まってきて囲まれた。


「何を揉めている! 道を開けろ!」

 凛々しい女兵士が侍女たちに叫び、人だかりの中に道ができた。駆け寄って来た女兵士の顔を見て助かったと安堵した時、女性が売り物の化粧品を周囲に投げつけ、白粉の煙幕に怯んだ女兵士の間をすり抜けて走り去った。


「そ、その女を捕まえろ!」

 出入口付近にいた女兵士たちが手を伸ばしても、女性は慣れた動作でかわして駆け抜ける。女兵士たちが女性を追いかけ、何が起きたか理解できずに白粉で咳き込む侍女や売り子。おろおろとするばかりの女官たちが取り残された。


 しばらくして、ざわつく大広間の入り口に女官長が現れると室内は静まり返った。灰緑色の髪を一筋の乱れもなく結い上げ、臙脂色の深衣の襟には、官位を示す金の刺繍が輝いている。五十歳を超えていると聞いていても背筋を伸ばす姿は三十代後半の印象を受ける。

「何の騒ぎですか」

 凛とした女官長の声は部屋の隅々にまで響き渡り、全員が姿勢を正す。騒ぎの発端は私。逃げも隠れもできないと覚悟を決めた。


「恐れながら申し上げます。この化粧水に麻薬が入っておりました。私が指摘をしたところ、販売していた女性が逃げ、兵の皆様が追っております」

 私の言葉を聞いた侍女たちの間に、静かなざわめきがさざ波のように広がっていく。目立ちたくはないと思っても、どうすることもできない。注目される緊張で手の震えが止まらない。


 誰か助けて欲しいと願った時、ルーアンの顔が思い浮かんだ。瓶を左手に持ち替え、袖の下に隠した腕輪を包むように触れると震えが止まった。


「カリン、その話を詳しく聞きますから、こちらへ。皆は一旦部屋に戻りなさい。購入した物は指示があるまで使わないように。商店の皆様はその場で待機。部屋と食事を用意させますので、本日はお泊り下さい」 

 女官長の言葉はきっぱりと重く、その場にいた誰からも異議は上がらなかった。


『カ、カリン……』

『大丈夫。すぐ戻るから』

『部屋で待っていますわよ』

 心配するシュンレイとホンファと言葉を交わし、私は女官長の前に歩き出した。


      ◆


 女官長は私を連れて王宮の医術師の元へと向かった。柱が朱色と金で彩られた王宮は華やかで落ち着かない。複雑に曲がりくねる廊下を進み、医術師の診察室へと通された。

 銀色の長い髪を一つに結び、白い上着に白い脚衣姿の医術師は皇帝と月妃専従。三十代半ばに見える年齢不明の落ち着いた美形は、侍女の間でも度々話題にでる。


 私は聞かれるままに詳しく状況を説明した。

「では、その化粧水を見せてもらおう」

 医術師は瓶のフタを開け、手であおぎながら匂いを嗅ぐ。その風がふわりと直撃して、麻薬の匂いに顔をしかめてしまった。

「私は匂いではわからないな……」

 そう言いながら、医術師は引き出しから小さなガラスの皿を三枚取り出して、化粧水を数滴ずつ垂らす。わずかに白濁する液体に、三種類の試薬を一滴ずつ垂らした。


「紫色に変われば麻薬、赤色に変われば毒薬。緑色に……間違いなく麻薬だな……」

 三枚の皿の上の化粧水は、ごく薄い紫や淡い赤紫、薄青紫と変色した。


 見ていた女官長が口を開いた。

「麻薬が化粧水に入っていることで、どういった問題が起きますか?」

「使われた麻薬は、塗っても口に入れても効く種類のものだな。化粧水なら肌に塗るし、付けた手指で唇を触れば口から入る。色から判断すれば、ごく微量ではあるが毎日何度も使ううちに麻薬依存症になる可能性があるな。……匂いに敏感な者なら、匂いでも効くかもな」

 医術師は一旦話を切って立ち上がり、化粧水を乗せた皿を鉄の小箱の中に入れて戻ってきた。


「昔、帝都で起こった事件の話だ。

 とある小さな飲食店が突然繁盛しだした。出される料理は普通の品だというのに、誰もが病みつきになって毎日通う。他の店は閑古鳥。つぶれた他の店を買い取って大きくなっていった。


 その評判を聞いた医術師が食べに行くと料理は普通の味。美味いと絶賛する程でもないし毎日食べたいと思うものでもない。ところが食べ終わった後、口臭予防の効果があると出された薄荷の飴に少量の麻薬が入っていた。

 客は料理が目当てではなく、麻薬入りと知らずに食べていた飴が欲しくて毎日通っていたのだな。医術師は飴を吐き出して持ち帰り、それを証拠として帝都警備兵が店主を捕まえた。


 店主は悪気はなかったと言っていたが、麻薬はわずかずつでも心と体に影響を与えて変化させてしまう。初期の頃から通っていた客にはもう禁断症状がでていて手遅れだった。店主は死刑。手遅れの客は禁止された麻薬に手を出したとして二十余名が牢に入れられて、治療の甲斐なく全員死んだ。……もう少し早く店に行っていたら客を助けられたのではないかと医術師は未だに後悔しているそうだ」

 淡々と話しながらも瞳に浮かぶ表情を見て、この話に出てくる医術師本人なのだと直感した。


「現時点での私の推測でしかないが、犯人は麻薬入りの化粧水を売る相手を選んでいたのだろう? 狙った者に麻薬入りの化粧水を繰り返し使わせて、徐々に濃い物を与える。麻薬に抵抗が無くなった頃に麻薬そのものを無料で渡し、どうにも引き返せなくなったら金銭を要求。金が無くなったら体で支払えと言って遊郭へ売るつもりだったのだろうな」

 医術師の言葉を聞いて、女官長が眉をひそめて不快感を表す。滅多に見ない表情に驚いた。


「非常に嫌な話だが、遊郭では後宮の元女官や元侍女は遊女としての価値が高い。地方都市になれば、さらに高くなるらしい。化粧品の小さな儲けの商いをこつこつと積み重ねるよりも、手っ取り早く儲けることができる」

 背筋がぞっとして、自分の手を握りしめる。本当に恐ろしい話としか思えない。


「それにしても、よくわかったな」

「……〝薬園の乙女〟ですから、匂いでわかりました」

 後宮の薬草園には麻薬の材料になる草花もある。こじつけでもそう匂わせると、医術師は納得したという表情を浮かべた。


「そうか。勉強熱心なのだな。……今回は未然に防げてよかった」

 銀色の髪の医術師は、ほっと安堵の息を吐いた。

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