第十話 皇子の帰還
麻薬入りの化粧水を持ち込んだ犯人は後宮から逃げ、捕まえることができなかった。店に帝都警備兵が向かうと店主は何も知らず、奥さんが突然病気で倒れ、犯人を臨時で雇っていただけだった。
後宮に納品された支給品の化粧水は水で薄められていることが判明し、すべて新しい物へと取り替えられた。実害が出なかったことから皇帝陛下からの恩赦があって化粧品店は許され、今後の取引も続けられることになったので安心した。
早朝の空気はやっと春めいてきて心地いい。薬草園の一角で可憐に咲く小さな青い花をそっと傷つけないように摘み取って手元のカゴへと入れていく。
「化粧水つける度、カリンのお手柄思い出すのよねー。いやー、麻薬入ってたなんて怖い怖い」
「本当にねぇ。皆、無事でよかったわよねぇ」
事件の概要は女官長から全員に知らされていて、シュンレイとホンファだけには詳細を告げてもいいと許可が出ていて、話はしてある。
「偶然だけど防げてよかったって思ってる。この話はもう忘れて終わりにしましょ」
あれ以来、後宮内での私に対する空気が少し変わったと感じている。元々中立的だった人々がわずかに好意的になり、私に嫌がらせをしていた人々からは嫉妬の感情を強く受けるようになった。独りになるのを狙ったように嫌がらせがあるので、可能な限り誰かと行動している。
最初は何故嫉妬なのか理解できなかったけれど、その言動の端々から、私が女官長と王宮へ行ったことで何か隠れて恩賞を受けたのではないかと疑っていると推測できた。
「よし! ザル一杯収獲ー!」
「座りっぱなしの作業も案外きついのよねぇ」
「た、確かに……あいたたた。腰が痛ーい」
女性が抱えるくらいのザルを小さな花で満たす作業はとても長い時間が必要だった。日が出る前から摘んでいたのに、今はもう日が昇ってしまっている。三人で笑いながら体を曲げ伸ばしした後、薬草園を離れた。
◆
医局へ花を届けて二人と別れ、何となくルーアンの執務室の外を通ると医官と話をしているルーアンの背中が見えた。話している内容は聞こえなくても、何となく何かを頼まれている雰囲気。ちょっぴり残念な気持ちで通り過ぎる。
第一皇子に手を掴まれてから、独りで第三書物庫へ行くのが怖い。建物の近くまできて、ルーアンがいないから今日はやめておこうかと踵を返した時、走ってくるルーアンの姿が見えた。今まで深衣姿で走る男性を見る機会はなかったので、驚くしかない。
「カリン!」
明るい笑顔で名前を呼ばれて、どきりとした。周囲に人がいるのにと思う恥ずかしさと……何かよくわからない嬉しさとくすぐったさが混じり合って、頬に熱が集まっていく。
「あ、あ、あの……お仕事は?」
「それに関する調べ物が必要でしてね。御一緒しても?」
「あ、はい」
走ってきたのに、ルーアンの息は乱れてもいないし頬も赤くないから何となく悔しい。明るい笑顔の上に人の好さそうな笑顔が貼りつけられたのも残念。
書物庫の中、複雑に置かれた書架の通路を曲がると赤い光が煌めく。何も言われなくても、一瞬浮かぶ魔法陣でルーアンの防音結界とわかるようになっていた。
「今朝、麻薬混入事件の報告書を読みました。カリンが無事で良かったですが、何故私に話してくれなかったのです?」
人の好さそうな仮面が外れ、口を引き結んだルーアンは完全に拗ねている。その顔が可愛くみえて、緩みそうになる頬を引き締める。
「口外しないようにと女官長から指示があったので仕方ありません」
「……それなら仕方ありませんね……」
「やはり犯人は捕まっていないのですか?」
「ええ。現時点ではまだですね。ただ、単独犯ではないと判明しています。辺境の地方都市を根城にしていた犯罪集団が追い出されて帝都に来た可能性があるようですよ」
「それは……」
後宮へ納品された大量の化粧水すべてが薄められていたのは、犯人一人で出来る事ではないと疑問に思っていた。いざ犯罪集団と言われると想像よりも規模が大きすぎて思考がついていけない。
「カリン、護符に術式を書き加えましょう。正式な完成品は後日になりますが、私に連絡できるようにします。何か危険な状況になった時でも、困った時でも構いませんから連絡して頂ければ、なるべく早く駆け付けます。召喚魔法は短時間では組み込めませんが、連絡程度なら簡単な書き込みで終わります」
「……私の身が危険ということですか?」
「今回のこともありますが、第一皇子の件もありますからね。用心に越したことはありませんよ」
腕輪を着けたままの左手を差し出すと、右手でそっと握られて不謹慎にもどきりとした。すっと鋭さを増した赤茶色の瞳が赤く染まっていく。
ルーアンの唇から聞いたことのない言葉が紡がれて、薔薇水晶と紅玉が赤い光を帯びる。宝玉が揺れながら波打ち、涼やかな音を立てる不思議な光景を見守っていると、空中に現れた魔法陣が紅玉へと吸い込まれた。
魔法陣が次々と現れて、薔薇水晶の一粒一粒にも吸い込まれる。再度、紅玉へ魔法陣が吸い込まれると腕輪が光り輝いて、やがて元の色へと戻った。
「応急措置ではありますが、どの薔薇水晶でも構いませんので指で強く押しつぶして下さい。それで魔法陣が解放されて私の元へ伝わります」
「指で押しつぶす? こんなに硬いのに?」
指先で触れた薔薇水晶の表面は硬くて、普通の石のよう。
「試しに強く押してみましょうか」
言われるままに人差し指と親指で押してみると、ぐにゃりとまるで葡萄の粒のような感覚が伝わってきて、慌てて指を離す。
「薔薇水晶を指ではじいてみてください。紅玉はダメですよ。隠蔽魔法が発動してしまいますからね」
桃色の宝玉を指ではじくと硬い感触。押すと柔らかい。紅玉は押しても硬いまま。一族の中にいた魔術師よりも遥かに高度な魔法を見ていると、文官よりも魔術師になった方がいいのではないだろうかと素直に思う。
「ありがとうございます。……あの……」
ルーアンの目的が護符作りだとわかっていても、やはりもらってばかりでは申し訳なく感じる。何かできることは無いかと聞こうとした時、ルーアンが口を開いた。
「ところで、ですね……腕の良い薬師の知り合いはいませんか? 口の堅い者が良いのですが」
「え?」
どきりとした。私はまだルーアンに香魔であることも告げていないし、薬を調合できることも教えていない。
「……これは秘密なのですが、月妃専従の薬師の薬が効かないようなのです」
それは異常だと思った。皇帝は香魔の一族に薬を頼んでいて、月妃用の薬もある。香魔の薬が効かないなんて信じられない。
「医局の薬とは違うのですか?」
「そのようです。王宮内に部屋があって薬師が三名勤めています。皇帝は薬を飲みませんが、月妃は美容や健康の為に毎日薬を飲んでいるそうで。先月から月妃のお一人が病に掛かっていて薬を飲み続けているのに一向に改善しないと、先程相談されましてね」
あの医官と話していたのが、この件なのか。一族の薬ではないと知って安堵してしまった。困っているのなら助けたいと思っても、私が香魔であることは誰にも知られたくない。
「……帝都に薬師はいないのですか?」
「一応、私の知り合いにもいるのですが……そもそも、その月妃が医術師の診察を拒否していましてね。女官から伝えられる症状だけで薬を作っているという状況で」
「陛下にはお会いしていらっしゃらないのでしょうか」
あの優しい陛下なら、月妃が病になったと聞けば香魔に薬を依頼するだろう。遠い辺境からでも香魔一族の精霊使いや魔術師が数日で届けている。
「そこまではわからないのですよ。
同じ後宮内にいると言っても、月宮内は別世界だから理解できる。外部から状況を見えなくすることで外戚の影響を極力減らすように努めていると聞いた。
私が作るとも言えずに、どうしたらいいのか迷っているとルーアンが苦笑する。
「口に出したら迷いがすっきりしました。知り合いに頼んでみることにします」
「力になれなくてごめんなさい……」
「いえいえ。カリンに話を聞いてもらって、頭の整理ができました」
困り顔から一転して優しい笑顔になったルーアンを見ていて、渡す物を持っていたと思い出した。
「あの……これを……」
服の
「これは?」
「中身はギリの根です。先日の花茶にこれを入れて、よく混ぜて下さい。疲労回復に効きます」
私の言葉を聞いて、ルーアンが目を泳がせる。あのお茶に何か不具合でもあったのだろうか。
「実は……ですね……その……美味しかったので全部飲んでしまいました……」
消え入りそうな声で告げられた内容が可愛い。
「すぐ調合できますから、後で執務室へ寄ってもいいですか?」
久しぶりに調合した花茶を気に入ってくれたことが嬉しくて、私の頬が緩んだ。
◆
後宮に戻り夕食と入浴を終え、集団部屋でくつろいでいると女官が慌てた顔でやって来て、私に緊急の呼び出しを告げた。誰の命令なのか、何が理由なのかも教えてもらえないまま桃色の深衣を着用し、早足の女官の後を着いていく。
白い月は新月で光を失い、無数の星が空に輝いている。後宮内の庭園の草木は闇に包まれ、柔らかな風でさやさやと葉擦れの音が聞こえるだけ。
廊下を曲がると、周囲が極彩色に切り替わった。ここから先は月宮の領域。
赤に塗られた柱に金の装飾は王宮と同じで、青・黄・赤・白・黒の五彩で塗られた模様が天井に描かれている。赤い飾り格子で彩られた窓と壁には金襴の織物が掛かっていて、白い陶器に美しい花が活けられている。
「ここから先は貴女独りでお行きなさい」
赤い深衣を着た女官が、緊張した顔で私に告げる。何故私が月宮に呼ばれたのか。理由が全くわからなくて不安で心臓が早鐘を打つ。
さらに進むと広大な池が見えた。池の水の色は濁った緑色で、底は全く見えない。王宮から伸びる渡り廊下の先、水上の豪華な建物は皇帝の寝所。その奥には月宮が立つ浮島が五つ。それぞれは独立していて、浮島へは舟しか移動方法がない。
池の端に作られた船着き場には大きな睡蓮の花の形をした舟が浮かんでいて、水色・桃色・黄色・白・淡い紫の五つが並ぶ。久しぶりに見る
通常なら女兵士と女官が控えているのに、女官すらいない。誰もいない船着き場に魔法灯が煌々と輝くだけ。池から吹く風の匂いは不思議と不快さはなくて、浮島に植えられた樹木や花々の匂いを強く感じる。
これからどうなるのか、怖い。手を胸元に当てて、衣の下に隠した腕輪に右手で触れてみても不安は消えなかった。
私が来た方とは別の廊下を誰かが走る音がした。こちらに向かって駆けてくるのは長い金髪の男性。皇帝に似た面差しでありながら、どちらかというと中性的で美しい。水色に銀糸刺繍の上着、白の脚衣は皇子の位を示している。
「カリン!」
駆けてきた勢いのまま抱き締められて体が硬直する。温かな体温と早鐘を打つ鼓動が私の体を包み込む。
「……ケイゼン様?」
最後に姿を見たのは十二歳の時。六年が経った今、少年は大人へと変化していた。抱きしめる腕は力強く、背は高く。
久しぶりに会えた喜びより、突然抱き締められた驚きより、違和感が強い。
……何よりも違和感を覚えるのは、体臭を感じないこと。人は誰でも体臭を持っている。身にまとう香りが体臭と混じり合って、その人個人の匂いになる。至近距離でもケイゼンは純粋な柑橘類の香りだけしかしない。……まるで、今すぐ風に消えてしまいそうな精霊のよう。
両手でそっとケイゼンの胸を押すと腕の力が緩んで離れた。
「すまない。ずっとカリンに会いたかったんだ。……そんなに驚かないで欲しいな。僕は変わってしまったのかな」
寂しそうな笑顔に心が締め付けられる。六年もあれば、人は変わるのは当然。ましてや成長著しい年齢なのだから。
「想像以上にご立派になられたので驚きました。こうして再びお会い出来て恐悦至極でございます」
挨拶の為、膝を床に付こうとして止められた。
「カリン、僕にはその挨拶はやめて欲しいと言っただろう?」
それは遥か昔、私が婚約者候補だった頃の話。今の私はただの侍女で、昔には戻れない。
「僕の母から呼び出しの手紙をもらって、帰って来た。カリンと一緒に話を聞いて欲しいそうだ」
ケイゼンの母親は青月妃。皇帝の正妃が私に何の話があるというのか。ケイゼンが隣で微笑んでも、不安を拭い去ることはできなかった。
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