第十一話 正妃の告白
「懐かしいな。カリン、手を」
ケイゼンに手を引かれ、水色の睡蓮の花の形をした小舟に立ったまま乗り込む。子供の頃、こうして二人で乗ったことを思い出すと何故か胸が痛む。
後宮内に広がる池に浮かぶ華舟は、初代皇帝が残した不思議な力で劣化することなく動いている。華舟の中央には人の背丈の半分の高さの柱が立っていて、柱の上部についた突起を左右に回転させることで速度調整ができる。
色ごとに行き先がわかれていて、水色の華舟は青月宮にしか向かわない。
「カリン、出発するよ」
「はい」
出発時のやり取りも昔のままなのに、ケイゼンの微笑みに微笑みで返せなかった。自分でも不自然な笑みを顔に貼りつけることしかできない。何故と思っても、理由がわからない。人がいるのに体臭がしないという異常事態に心が緊張したまま。
手を繋いだままで、ゆっくりと華舟が滑り出した。柱に付けられた魔法灯がぼんやりと輝き、緑の水面を水色の花が進む光景は優雅。
降るような星が輝く空の下、浮島の上に建つ小ぢんまりとした美しい月宮の建物は、何となく鳥かごを連想させる。子供の頃はもっと大きいと思っていた二階建ての建物は大人になると小さく感じる。
皇帝の妃になると一生のほとんどをここで過ごすことになる。年に数回儀式の為に外に出るだけで、解放されるのは皇帝が崩御するか、代替わりした時。美しく着飾って優雅に暮らす生活と皇帝の寵愛を受けて国母になる夢を持つ者は多くても、私はその生活を望まない。
香魔は皇帝の為に薬を作るだけの存在ではない。皇帝専用の特別な薬の他は、誰かの為に薬を作り、香りを作ることが許されている。一族であることを隠して、遠方の都市の医術師や店に薬や香油、石けん類を売って金銭を得ている。
誰かの為に薬を作って生活する。それが私の夢であり理想。
華舟が青月宮が立つ浮島へたどり着くと船着き場には侍女が待っていて、すぐに二階の寝室へと案内された。
「寝室で会う? 理由は?」
「青月妃様は病に臥せっておられます」
「病?」
侍女の言葉を聞いて、ルーアンが言っていたのは青月妃かと思い当たった。美しい彫刻が施された階段を上ると寝室の扉が開けられた。
極彩色に彩られた豪華な寝台に横たわる青月妃
「母上? 何の病なのですか? 医術師の見立ては?」
挨拶も無しで青月妃に駆け寄ったケイゼンに驚くと同時に、やはり母のことは心配なのかと安堵する気持ちが沸き上がる。
昔は何がどうあっても皇帝の正妃と第三皇子の立場が重視されていて、母親といえども正式な挨拶を交わしてから、やっと会話が許される状況だった。
ユーチェンの翡翠色の瞳がゆっくりと開いた。
「……ケイゼン、待っていました。……医術師には診せたくないのです」
「何故です? 酷い状態ではないですか」
「医術師に知られたら、陛下にも知られてしまいます。私は陛下に知られたくないのです」
昔、私が青月宮の侍女として勤めていたころ、陛下は頻繁にこの青月宮を訪れていた。私の父母と同じで、皇帝でも夫婦は仲睦まじいものなのだと思っていた。今は通っていないということだろうか。
部屋には侍女も女官も控えてはいない。通常は跪く状況でもユーチェンは立ったままで良いと言い、ケイゼンが求められるままにユーチェンの半身を支えて起こす。しばらくの沈黙の後、ユーチェンは私に向かって口を開いた。
「……わたくしは……長きにわたり、後悔していることがあるのです。……カリン、わたくしは貴女に嫉妬するあまり、貴女の父母を死へ追いやりました」
「……母上、何を……」
「ケイゼン、お黙りなさい。わたくしはカリンに話をしたいのです」
言葉を失う衝撃というのは、このことをいうのだろう。正妃が私に嫉妬の感情を持つなんて理解できないし、父母の死に関与しているなんて信じられなかった。
「貴女の祖母が陛下の初恋のお相手であったということを、わたくしはずっと陛下の昔語りで聞かされていました。そして貴女が呼ばれた時、わたくしは貴女を恐れた。……わたくしに与えられた青月妃の証〝華蝶のかんざし〟は模造品。本物は陛下がまだお持ちになっているようなのです。わたくしは本当の正妃ではないのです」
ユーチェンは咳き込み、話は途絶えた。
「親子以上に歳が離れていても、貴女を正妃にするつもりではないかとわたくしは疑いました。ケイゼンの婚約者として指導するようにと陛下に命ぜられても、わたくしの猜疑は晴れることはなかった……」
「その頃、陛下が頻繁にこの月宮に訪れるようになったのは、わたくしの侍女として働き学ぶ貴女の姿を見る為だったのです。……ケイゼンは若い頃の陛下に良く似ていました。庭でケイゼンと貴女が二人で過ごす姿を覗き見ては、昔見ていた夢が実現したと喜ばれて……。わたくしにとっては悪夢のようでした。このままでは陛下とケイゼンが貴女に盗られてしまう。そう、思いつめるようになりました」
途切れ途切れで語られるユーチェンの言葉の意味が全くわからない。皇帝と皇子を盗ろうと思ったことは一瞬たりともないと断言できる。
「その年の星詠みの際、わたくしは占星術師に悩みを聞かれて話してしまいました。その占星術師はケイゼンだけでも盗られないようにと、カリンの父母を殺めることをわたくしに提案し……わたくしは承諾してしまったのです」
毎夏に行われる『星詠みの宴』は後宮で人気の行事。国内の高名な占星術師が多数集められ、月妃だけでなく女官や侍女まで運勢を見てもらうことができる。私は香魔であることを知られることを恐れて、一度も参加したことがなかった。
「わたくしは占星術師に言われるままに貴女の手紙を偽造し、陛下に貴女がとても寂しがっていると嘘を吐いて貴女の父母を迎える馬車を仕立てました。そうして、どういった方法なのかはわかりませんが、起きてはいけないことが起きました」
当時、確かに私は寂しいと思っていた。毎晩布団の中で涙を流しても朝には何も無かったかのように懸命に振る舞った。その気持ちを利用されたようで、悔しくてたまらない。
「許されないことをしたと、ずっと後悔していました。本当にごめんなさい」
罪の告白をしたユーチェンは憔悴しながらも、どこかすっきりとした表情で美しい翡翠色の瞳に涙を浮かべている。許せない。その気持ちしか感じなかった。父母を殺したと告白することで、この人は自分の罪の重さを私へと移しただけ。
「……母上、その占星術師の名は?」
「……それが……何故か覚えていないのです。女性だったということしか」
ふと視線を下げるとケイゼンの握られた拳が震えている。怒ってくれているのだろうかと思っても、私の気持ちは晴れることは無い。
「何を代償にされたのですか?」
「……真珠の髪飾りを」
真珠が連なる髪飾り。ふとその記憶が蘇る。私が初めてユーチェンに会った時に髪に飾られていて、いつの間にか見かけなくなった。それが父母の命の代償なのかと、頭に血が昇る。
「カリン、本当にごめんなさい」
ユーチェンが美しい涙を流しても許せる訳がない。それは私への謝罪ではなく、自分自身への憐れみの涙に見えた。罵倒したい気持ちを抑えて違う言葉を探しても見つからず、私は叫んだ。
「……私は……絶対に貴女を許さない!」
皇帝の正妃だからと言って、父母を殺した人間を許すことはできない。怒りの感情は叫んでも消えることはなかった。
同じ空気を吸っていることすら許せなくて、寝室を飛び出して月宮の階段を駆け下り、驚く侍女たちを横目に船着き場へと走る。
華舟に乗り込んで、動かそうとしても動かない。柱についた操作管や突起を触っても、小さな舟は揺れもしなかった。
「何故、動かないの! 動いてよ!」
こんな酷い所から離れたい。子供のような癇癪を持て余し、金属の柱を握った手で叩く。冷たく硬い柱はびくともせず、ただ私の手が痛むだけ。
「カリン……ダメだ。君が怪我をしてしまう」
私の手首を掴んで止めたのはケイゼン。赤と緑の月、そして降るような星を背にする姿は本当に精霊のよう。
「……血の匂いが……」
純粋な柑橘類の香りに、新しい血の匂いが混じる。ふと自分の袖を見ると、微かな血の跡。
「……すまない。私の血のようだ」
ケイゼンの手のひらには、自らの爪でついた傷が出来ていた。きっと手を強く握りしめていたせいだろう。手巾を差し出そうとする前に、白い光が傷を癒していく。皇帝と同じ神力は、私の袖についた血の跡も消した。
「華舟を出そう」
ケイゼンの声に答えることもできず、ただ無言で頷くと華舟は水面を滑るように動き出す。風が後宮内の草花の爽やかな匂いを運んでも、今の私には何も感じない。
何故涙が出ないのかわからない。悲しいと思うよりも、悔しくて悔しくて仕方ない。私の父母が一体何をしたというのか。私が邪魔だというのなら、私が寂しがっているから村に返す。それだけで良かった。
華舟は静かに後宮の船着き場へと到着し、私はケイゼンの手を借りずに舟から降りる。
「カリン、すまない。このことは僕から父に報告する。占星術師を探し出し、罪を償わせる。……母にも償わせたいが、残り時間は長くはないだろう」
悔しさをにじませるケイゼンの言葉で、私は一つの復讐を思いついた。
「……ケイゼン様。王宮にある薬師の部屋を使う許可を下さい。私なら、ユーチェン様の病気を治す薬を作ることができます」
「カリン? ……それは一体……」
第三王子は香魔の一族のことを知らされてはいない。知られてはいけないと思っても、私はどうしてもユーチェンを許せなかった。
「……私の両親を殺しておいて、死んで許されるなんて思って頂きたくありません。これから先、一生後悔し続けて頂きます」
罪を告白して、自分だけ心安らかに冥府へ逃げるなんて絶対に許せない。
「わかった。王宮へ行こう」
ケイゼンが了承し、私は王宮へと向かった。
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