蝶遊苑国香魔伝 -後宮に隠れ住む魔女-
ヴィルヘルミナ
第一章 後宮に隠れ住む魔女
第一話 清麗の雫
三つの月を戴く
十歳で一族秘伝の香りと薬の製法すべてを習得した私は、正妃の侍女として皇帝陛下直々に後宮へ召し上げられ、第三皇子の婚約者になる為の教育を受けていた。
「
背の半ばまである長い金髪に青い瞳。皇子を示す銀糸刺繍が施された水色の上着に白い
後宮の敷地の大部分を占める広大な池を背にして、彼は重い口を開いた。
「君の御両親が事故で亡くなった。乗っていた馬車が崖下に落ちたそうだ」
「……嘘……」
足元の地面が崩れたような気がした。ぐらりと世界が回り、倒れそうになった私を彼が抱きしめる。
「残念ですわね。これで貴女はケイゼン様の婚約者候補ではなくなった。この国では父親がいない者は皇子と結婚できない決まりですもの」
憐れみの声は私と同い年の宰相の娘、
「カリン、約束する。僕は――」
私が流す涙を指で拭う彼が何かを言っているのに、その声が聞えない。いつしか私の周囲すべてが闇に塗りつぶされた。
◆
布団の中で目が覚めた。何度も繰り返して見る夢は過去の思い出。額に滲んだ汗を手の甲で拭いながら、そっと息を吐く。……十七歳になった今も、あの日の衝撃を忘れることなんて出来ない。
第三皇子の婚約者でなくなっても、私が一族の村へと帰ることは許されなかった。真っすぐな焦茶色の髪と茶色の瞳を持つ私は、私の祖母の若い頃に良く似ているらしい。祖母は皇帝陛下の幼い初恋の相手だったと聞いている。
周囲で眠る侍女仲間を起こさないようにそっと起き上がる。皇帝陛下のお気に入りの侍女として、後宮外に個室を与えられていたこともあった。ところが、その特別待遇が気に入らない者がいたらしく、就寝中に何度も襲われそうになったので後宮内の集団部屋への移動を希望した。
部屋には侍女十二名が布団を並べていて、男子禁制区でもあるから安心して眠ることができる。大多数の侍女は私が過去に第三皇子の婚約者候補だったことを知っていて、待遇が落とされたと思っているからか優しく接してくれる人の方が多い。その憐れみの眼差しに苛立つことはあっても、多くの女性の中で波風立てず生き抜く為には諦めて感情を飲み込むしかなかった。
皇帝陛下との約束で、結婚が許される十八歳になれば侍女を辞めて外に出ることができる。辞めずに試験を受けて官位を上げれば女官になることもできる。期日までにどちらを選ぶか考えるように言われていても、外に出ることしか考えていない。あと一年が本当に待ち遠しい。
木戸の隙間からは白い月灯りが漏れていた。今日は白い月が満ちる夜。白い夜着の上に淡い茜色の深衣を羽織って部屋から抜けだして、後宮の裏庭へと向かう。
空には常に輝く赤と緑の月と、満ち欠けを繰り返して毎夜空に昇る小さな白い月が並んでいる。白く輝く月の光が周囲を優しく照らし、木々に茂る葉が風に揺れてさやさやと静かな音楽を奏でる。名もない雑草やありふれた木々しかないこの小さな裏庭は、誰も関心を持つことがない。常に人がいる後宮の中で、唯一独りになれる場所。
白い月を見上げ、両手を合せて願いを呟く。
「……姉の
私の双子の姉は、祖母が亡くなった直後に十二歳で村から姿を消したと聞いている。一族の女の中で唯一魔力を持たなかった姉は父母からとても可愛がられていて、魔女であり精霊使いでもあった母が自らの精霊の加護を姉に移していたから無事だとは思う。時折こうして祈りながらも、ふわふわと柔らかで可愛らしい姉の笑顔にちりちりと燻されるような嫉妬の気持ちが消えなくて、自分の心の黒さに溜息が出てしまう。
この世界には精霊や魔法を行使する力である魔力と、無から有を生み出す奇跡を実現する神力という特別な力を持つ者が存在している。香魔の一族は魔力を持ち、皇帝陛下を筆頭に皇族男子は神力を持って生まれてくる。貴族や平民にも力を持つ者はいても、自らの意思で力を行使できる者は稀有な存在。
「夜中に女性の一人歩きは危ないと思いますよ」
唐突に掛けられた声に驚いて振り向くと、背の高い男が立っていた。濃灰色の短髪に赤茶色の瞳。文官であることを示す深緑色の深衣を着用している。歳の頃は二十から二十二前後だろうか。怜悧な印象を受ける美形。その髪色のせいなのか、故郷の草原で見た灰色狼を連想させた。
とはいえ、ここは後宮の一角。男がいることが異常事態。
「ここは皇族以外の男子は禁制のはずです」
「……書物庫から私の寝所までの近道なのです。どうかご内密に」
「壁を乗り越えるのですか?」
「誰も知らない秘密の扉があるのですよ。私しか通れませんので、安心して下さい」
それは初めて聞く話。安心しろと言われても、男が自由に通行できると知って安心できる訳がない。
「夜中に書物庫で何をなさっているのです?」
「試験勉強ですよ。もうすぐ年に一度の昇格試験ですからね」
そう言われればそうかと思い出した。初夏に行われる試験は文官たちの昇進に重要な意味を持つ。優秀な成績を上げれば、例え平民でも高い官位につくことができる。
「それでは。失礼致します」
男とすれ違った時、くっきりとした墨の匂いと爽やかな竹の香りが掠めた。直前まで墨を使っていたのだろう。竹の香りが故郷の山に広がる竹林を思い出させる。香りによって一瞬で引き出された懐かしい記憶を、三つ目の香りが打ち消した。
ごくわずかに香るのは薄荷に似た香りを持つ〝清麗の雫〟。香魔一族の秘伝中の秘伝、皇帝陛下と正妃のみが口にすることができる薬。三百二十二種類の材料で作られ、良い効果も悪い効果も消し去る完全完璧な解毒薬。
恐らくは衣の下に薬瓶を持っていると気付いても、何故その薬を持っているのか聞くことはためらわれた。下手に指摘すれば私の身が危険に晒されるのは明白。
引き留める言葉を探して立ち尽くす私を振り返り、男が口を開いた。
「貴女も早く戻った方が良いですよ。明日も早いのでしょう?」
「……私の名はカリン。貴方の名を教えて頂けませんか?」
「おや。それは私に興味を持ったということでしょうか?」
「……竹の香りが気になっただけです」
「ああ、これは竹の香りだったのですね。名前も知らずに店で買った香油と石けんを使っていました」
自分の匂いを確かめるように袖を嗅ぎつつ男が教えてくれた店は、帝都で一番人気の香油屋だった。廉価品を豊富に揃え、一部高級品も扱う店には私も訪れたことがある。
「私の名は
「いいえ。それだけです。お教え下さりありがとうございます」
後宮に六年務めているのに、初めて聞く名前で驚いた。これ程の美形が侍女の間で噂にならない訳がない。
「それでは。おやすみなさい、カリン」
「……おやすみなさい」
同じように返すことが礼儀かと思っても、いくらなんでも初対面の男の名前を呼ぶことはできなかった。かろうじて返した挨拶に、ルーアンは優しく微笑んで歩き去った。
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