第二章 後宮に潜む甘い毒薬
第一話 花容の腐蝕
日の出前、後宮内の広大な池に浮かぶ月宮から、女性の悲鳴が響き渡った。
後宮の三分の二を占める池に浮かぶ五つの島に建てられた月宮には、皇帝の妃である月妃とその女官や侍女が住んでいる。
早朝から始まる薬草の世話の為、すでに起きだしていた〝薬園の乙女〟十二人全員がその悲鳴を聞いていた。身支度の手を止めて、池が見える窓へ視線が集まる。
「何? どの宮から?」
「わからない……やっぱり、また、あれが起きたんじゃないのかな……」
「……原因不明のあの病気?」
十日前から、後宮で奇病が発生していた。ある日突然、顔の一部が爛れる。その外見はまるで生きながら腐ったように見えるらしく、医術師や薬師たちが手を尽くしても快方には程遠い。
発症してしまった者は後宮の外に出され、王宮で隔離されている状況。何しろ原因が全くわからないので、次は自分が掛かってしまうのではないかという恐怖が後宮内に広がっていた。
「
声をひそめた
「直接見れたらわかるかもしれないけど……。病気の予防に効くと言われる薬草でも、効果は様々だもの」
その症状を見る事ができたら、解決する薬が作れるかもしれないとは思う。いざとなったら、
「もしも私が掛かったら、誰にも見られたくないかもしれないわねぇ」
「
得体の知れない恐怖に包まれても職務を放棄することは許される訳も無く。私たちは気力を立て直して、薬園へと向かった。
◆
三つの月を戴く
十歳で一族秘伝の香りと薬の製法すべてを習得した私は、正妃の侍女として皇帝陛下直々に後宮へ召し上げられ、第三皇子の婚約者になる為の教育を受けていた。
「カリン……悪い報せがある」
背の半ばまである長い金髪に青い瞳。皇子を示す銀糸刺繍が施された水色の上着に白い
……ああ、また同じ夢を私は見ている。これは両親が死んだと告げられた日の光景。もう見たくない、忘れたいと思っているのに。
青月妃ユーチェンの、私に対する見当違いの嫉妬で両親は殺された。私は皇帝もケイゼンも惑わせようとしたことはなかった。
皇帝の妃たちが住む月宮が浮かぶ広大な池を背にして、彼は重い口を開く。
「君の御両親が事故で亡くなった。乗っていた馬車が崖下に落ちたそうだ」
「……嘘……」
足元の地面が崩れたような気がして、ぐらりと世界が回り、倒れそうになった私を彼が抱きしめる。
「カリン、約束する。僕は君を――」
私が流す涙を指で拭う彼が何かを言っているのに、その声が途中から聞えない。私は、その言葉を聞いて……恐ろしいと感じた。悲しいでも嬉しいでもなく、ただ、恐ろしい。
何故と考えてもわからない。
その言葉を忘れているのではなく、まるで消されたような。
ケイゼンは、何を私に告げたのか。
やがて私の意識は、深い眠りへと潜っていった。
◆
女ばかりの後宮内では、いじめも一つの娯楽として蔓延っている。皇帝の妃である月妃たちを頂点として、官位を持つ女官、月宮で仕える内勤の侍女、成人前の皇子や公主に仕える外勤の侍女、雑務を担う下女。千人を超える女性が集められた後宮では、些細なことが原因で、いじめの標的になる。
一人で誰もいない廊下を歩いていると、桃色の
「何か御用ですか?」
侍女たちの顔には見覚えがあった。第一公主
「ケイゼン様のお妃候補に戻られたそうですわね。おめでとうございます」
「いいえ。それは間違った噂です。私にはすでに将来を約束した婚約者がおります」
このやり取りをするのは何度目のことだろう。あまりにも多すぎて数えることは辞めた。掴まれた手を振りほどくと、別の侍女に左手を掴まれて、袖の中に隠していた腕輪が見えてしまった。
「あらあら、素敵な腕輪ね」
「どうぞ。差し上げますよ」
「何を企んでいるの? 後で私が盗んだと、偽証でもするおつもり?」
「いいえ。そのようなことは申しませんのでご安心下さい。私がこの腕輪をお譲りしたと、きっと皆様も証人となって下さいます」
他の四人に証人になってもらえばいい。そう促すと、侍女は気分を良くして手を差し出した。
「どうぞ」
私の手から完全に離れた途端、腕輪を乗せた侍女の手が落ちて、引っ張られるようにして床に崩れ落ちた。
「お、重いっ! な、何なの、これはっ!?」
ルーアン特製の腕輪は、私専用の護符。私には羽のように軽く感じられても、他者にはとても重く感じる品。
「……言い忘れておりました。その腕輪は婚約者の文官ルーアンの愛が込められておりますので、とても重いのです。……できれば貴女に身替わりとなって頂きたかったのですが……残念です」
愛が重い。以前にも同様の嫌がらせを受けた際に咄嗟に口からでた出まかせは、聞いた者の恐怖をあおるらしく、それ以後は顔を見ると逃げていくという効能がある。
「み、身替わり? の、呪いなの?」
「重過ぎる愛の結晶ですから、そうとも言えるかもしれません。私の婚約者は文官のルーアンただ一人。皇帝陛下にも認められております」
つい先日、皇帝陛下から婚約祝いの豪華なお菓子が部屋に届いた。優しい陛下を騙している罪悪感はありつつも、受け取ったお祝いは同室の〝薬園の乙女〟全員に振舞ったおかげで、乙女の中でのやっかみは消えた。
青ざめた侍女の手は床に落ちたまま。その手の平から腕輪を指で軽く摘まみ上げると、侍女の顔は驚愕へと変わる。
「そ、そんなっ……」
「この重すぎる愛をご希望でしたら、いつでも貴女にお譲り致します。覚悟が決まればお知らせください」
静かに微笑むと、周囲で見ていた侍女たちが一斉に逃げ出した。床に座り込んだ侍女は、立ち上がろうとしても立ち上がれず、どうやら腰が抜けてしまったらしい。
「待って! 置いていかないで!」
「大丈夫ですか? 手を貸しましょう」
「ひっ! さ、触らないでっ!」
差し伸べた手は拒否されて、侍女は立ち上がろうとしては倒れるを繰り返して、必死の形相で逃げていく。
「…………この腕輪、結構便利かも」
地味にウザい嫌がらせを受けるより、怖がられて避けられた方がまし。美しく輝く宝玉の腕輪を見つめると、得意満面で意地悪な笑顔のルーアンの顔が浮かんで消えた。
「……あと八箇月半、か」
ルーアンは、私が後宮を出るまでの偽りの婚約者。それなのに、あっという間に過ぎていく日々を惜しむ自分の心が時々わからなくなる。十八歳の成人を迎えたら後宮を出て、ひっそりと独りで暮らす。あの時からの願いは変わってはいないはず。
溜息一つで顔を上げ、私は廊下を歩きだした。
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