第20話 箱と輪っか2

 静まりかえった部屋の中で特に何もすることがなく、ただ月を見上げていた。まん丸になった月が高く空の上で輝いている。

 なんだか最近こうやって月を見上げることが多くなった気がする。もっと前は前の住人が必ず家にいて、テレビの音だったり、料理の匂いだったり、関心を引く何かが必ず身の回りにあった。全てが全て、いいものだったとは言えないが、刺激は多かった日常だったのかもしれない。あれはあれで悪くなかった。こうやって静かな日常も悪くはないが。

 それにしても明美は遅い。飯でも食ってきているのだろうか、あの男と。

 

 別に構わないのだ。明美があの男に惚れこんでいるのはもう十二分に知っているし、楽しそうにしている明美を見られるめったにないタイミングでもあるので、別に構わない。

 別に構わないが、少しむしゃくしゃするのもまた事実だ。こう、しっぽが逆立つというか、不安で不満な気持ちが湧き出てくるから、どう向き合えばいいのかよくわからない。何はともあれ少しくらい旨いものがあればいい。いつも旨そうなにおいをさせて帰ってくるわりに、手土産一つないというのがもどかしい。大抵の嫌なことは旨い飯さえあれば大体解決する。それで解決できるくらいの気概さは俺にもあるはずだ。

 期待に胸を膨らませていると鍵の開く音が聞こえた。一歩一歩静かに床の軋む音が家に響き渡る。

 今日こそは何か一言でも言ってやろう。そう思い振り返った。が、顔を見た瞬間そんな気も失せた。明美は何やらとてもにこやかな顔をしていた。じっくりと思い出すように、じんわりと溢れ出る喜びを少しでも長く味わいたいような、静かな笑みが顔にあふれている。電気もつけずに掌に収まるくらいの小さな箱を、大事そうに抱えて眺めていた。

 ここで何かを言うのはとても野暮だ。なんで明美がこんなに喜んでいるのかは分からないが、余計なお世話というか、今じゃないというか。

 何とも言えない気持ちのモヤモヤがまた一つ、俺の中で貯まる。


「あ、ただいま。起きてたんだ、ぶんた」

 ようやく俺に気づいた明美が、箱から視線を外した。

「遅かったな。また飯でも食ってきたのか」

「それもあるかな」

 含みを持たせて、静かに近寄ってくる明美。

 俺の目の前まで来るとうつ伏せに寝転がって、視線を合わせてきた。赤くなった目元。ちょっと腫れぼったい感じがした。

「これ、弘人からもらったの」

 そう言って俺の目の前に、明美が大事そうに抱えていた箱が差し出された。

 青い箱の真ん中には銀色の輪っかが挟まっていた。曇りひとつないその銀の輪っかの中央には透明な石を持つように小さい猫がかたどられている。大事そうに、仰向けになって4本の足でしっかりと石を支えていた。月明りに照らされた石は綺麗だった。石の中から光るようにさえ見えて、ちょっと視線を動かすだけで、キラキラと動く。

「なんか綺麗だな。これ」

「そう、綺麗だね。本当に」

 満足げに明美が微笑む。

「私、結婚することになったの」


 なんでもないことのように、でも大切なことのように明美はその一言をゆっくりと話した。

「弘人がね、ずっと言い出せなくてごめんって、私にこの指輪をくれたの。結婚して、一緒に暮らそうって。私とぶんたと三人で、ずっと一緒に暮らしていこうって。大事そうに一言一言、噛みしめるように弘人言ってたな。手とかもちょっと震えていたし、すごく真剣な顔してね」

 あの男がいかに緊張していたか、手をプルプルと震わせて明美は面白そうに話をする。

 結婚とは人間が一緒に暮らすことを言うのだろうか。だが、それ以上に何か特別な意味合いを含むものなのだろう。明美を見ればわかる。

 あの男がこの家にやってくる。我が物顔で明美と暮らし、明美がいつも楽しそうにあの男と話をする。俺には見せない笑顔も、悲しげな顔も、全て包み隠さず見せるのだろう。そうして二人だけの世界に入っていって、俺は追い出されていくのだろうか。俺なんて居ても居なくても良いような、そんな感じになってしまうのだろうか。

「3年も待って、私本気にされていないのかなって不安になっていたんだけどね。ずっと弘人は考えていてくれたみたいよ」

「そうか」

 ただ一言、返すのが精一杯だった。嫌な感じが沸々と沸いてくる。明美はあの男だけいればそれで充分なんじゃないか。実は俺は邪魔なだけなんじゃないか。

「そう、それでね。ぶんたにお知らせがあってね」

 これ以上、何を言うんだ。明美は。

 こんな気持ちをここまで持たせて、さらに何を言うんだ。


「弘人と一緒にね、弘人の地元へ引っ越そうかと思っているの」



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