第2話 写真

 今でもお母さんが亡くなった日のことをよく覚えている。

 1年前、夏真っ盛りの8月。朝から30度を超す日が連日続くようなとても暑い夏だった。

 あの日の気分はよく覚えている。何かこう頭上から押さえつけられるような閉塞感だとか体がやけに重く感じるような倦怠感だとか、やる気というやる気が全て失われてしまったそんな感覚だった。今思えばただの夏バテくらいの感じだったんだろうけれど、冴えない一日の始まりだなと憂鬱に感じていたそんな日だった。

 そんな日に携帯が鳴った。見知らぬ男性。ひどく単調で、乾いたその声が今でも印象に残っている。

 お母さんが倒れて病院に運ばれた。

 その事実をやっと理解できた次の瞬間には着の身着のまま家を飛び出していた。誰かに嘘と言ってほしかった。なんならお母さんの達の悪い冗談であってほしかった。

「ちょっと道端でこけちゃった」

 いたずらっぽい顔をしてまたきっとそういうんでしょ。あのお母さんだもの。きっとそういうに決まっている。どこか懇願するような感情を抱いて、ただひたすら走った。

 でも、着いたときにはもう、お母さんは息を引き取っていた。いたずらっぽい笑顔も、苦痛にゆがめた顔でもなく、ただただ無の表情で眠るお母さんがベッドに横たわっていた。

 背中から体が冷えていったあの感じを今でも忘れない。





「明美、腹減った」

 右の太ももに軽い感触を感じて意識が戻る。

 視線を落とすと、ぶんたが前足を私の太ももに乗せて、上目遣いでこちらを見ていた。

「ぶんた、さっき食べたばっかりでしょ」

「あんなの食べた内に入らないぞ」

 低く唸るような声で不平をいうぶんた。お母さんも毎日こうやって催促されていたんだろうか。

「またお昼にね」

 小さな頭を手荒く撫でまわして、視線を戻した。

 化粧台の上に置いた写真。こんなところで良いのだろうかといつも思いながら、結局適当な置き場所が見つからなくていつもここにある。

 スーツ姿のお父さんと和服姿のお母さんが少し色褪せた写真の中で立っていた。

 元々無口であまり感情を表に出さなかったお父さんは写真の中でも口をへの字に結んでいる。中年太りしたお腹が出ているので貫禄があっていかにも怒っているように見えるけど、お母さんに言わせればこれがお父さんの微笑んでいる顔なのだそうだ。

 反対にお母さんは目元口元に笑い皺を寄せて、笑顔のお手本のようにきらきらと笑っていた。正反対に見える間柄なのに夫婦仲は悪くなく、週末は必ず二人で出かけていた。

 そしてもう一人。お母さんに抱きかかえられて、ぶんたが不機嫌そうにそっぽ向いていた。今より身長も半分くらいだったときで――体重はそれ以上だけど――、子猫っぽさと大人っぽさが入り混じっている体つきだった。

 かわいいなぁ、ぶんた。今もかわいいけど。

「なにをしているんだ、明美」

 ひょっこりと化粧台にぶんたが登ってきてこちらを覗き見る。

「お祈りしてたの。お父さんとお母さんが天国でも幸せで居られるようにって」

「前の住人のことか」

「そうね。ぶんた、よくご飯もらっていたでしょ」

「前の住人は明美と違ってご飯たくさんくれたぞ。なんならおやつもくれた」

 よほど私がご飯を与えないのが気に入らないのか、再び低く唸る。

「ぶんたがおねだりしてるんだもの、そりゃ二人ともも喜んであげたでしょうね」

「なんで明美はくれないんだ」

「ぶんたの健康に気を使っているのよ」

 親の心子知らずとはいうけど、ぶんたも同じな様だ。がしっと、頭をつかみグイっと顔を引き寄せる。

「なんでお父さんとお母さんが亡くなったか知ってる」

「いや、知らないな。明美にそういう話聞いたこともなかったし」

「お父さんはね、運動しなさすぎて心筋梗塞で倒れちゃったの。胸の病気って言えばいいかな。家族みんなで駆けつけたときは本当に苦しそうな顔をしていて見ているこっちが辛かったくらい。そんなお父さんの死に方を見ちゃったからお母さん、健康には人一倍気を使うようになったんだけど、逆に運動しすぎて熱中症で亡くなったの。毎日毎日欠かさずに運動していたんだけど熱い所にいすぎて体がおかしくなっちゃったの」

皮肉なものだけれども、結局何事もそこそこが一番良いってことをよく分からせてくれた。

「運動しても、しなくても人間は死ぬんだな」

「猫だって一緒よ。そこは生き物共通」

 ほっぺの皮を引っ張って軽く伸ばしてやる。ぶんたの顔が横長になっていくが、ある程度までは気持ち良いらしく、ちょっと目が細目になっている。

「私はね、ぶんた」

 伸ばした皮を戻してさらに顔を寄せた。

「できるだけぶんたと一緒に居たいの。ぶんたが不健康にならないように気をつける義務があるの。家族だから。だからぶんたも健康でいてね」

 ぶんたが居ない人生はきっと味気ないんだろう。どこかそんな予感を感じているからこそ、これだけぶんたは愛おしいのかもしれない。私の中の本心が伝わればいいなと。できるだけ優しく。ガラスのようなその瞳を覗いて、強く願った。

「俺は上手い飯が食えればそれでいいんだけどな」


 もう、何も言うまい。

 私は無言でチョップを入れた。

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