第19話 箱と輪っか1

 明美が出掛けていった。

「夜には帰ってくるからゆったりしててね、ぶんた」

 返事もしないうちにぴしゃりと閉じられるドア。またひっそりとした日常が戻ってきた。

 

 明美は何も言わなかったが今回もデートだろう。もうさすがに嫌でも分かる。

 明美があの男とデートに行くときはいつもより扉を閉めるときの音がうるさい。扉だけじゃない。支度をするときもなんだか急いでいるような、それでいて時間をかけているような、そんなよく分からない行動をする。駆け足で支度をしていたかと思うと、鏡の前で化粧をする前にちょっとだけ頬を撫でまわして笑顔を一回作る。

 表情が乏しい明美だが、デートの前だけはだいぶ表情が動く。だから、嫌でも気付く。


 部屋に戻ると独特な匂いが鼻を突いた。明美がいなくなった部屋の匂いは独特だ。

 鈍感な人間達は気付かないだろうが、化粧の匂いだったり、香水の匂いだったり、色んな匂いが部屋に入り交じる。いつもの明美がどこかへ行ってしまったようで、温もりがない布団のような物寂しい感じだ。

 あまり居心地が良くない。外に出掛けようか。窓の外は今日も青々とした空が広がっている。白い雲さえない穏やかな日。こういうときはいつもの公園でベンチに座って眠るのが一番だな。

 勝手口から出ていつもの公園へと向かうことにした。

 

 外はすっかり暖かくなった。人間達は薄い風通しの良さそうな服を着るようになってきて、色も茶色や黒といった暗い色から水色や白など明るくて淡い色に変わった。道端を見ればつくしやタンポポが咲くようになり、少しずつ草の青々としたした感じが鼻を突く。

 ガキどもに追い回されないように他所の家を経由していると、チビとすれ違った。

チビももうチビじゃなくなった。体がもう俺と同じくらい大きくなり――といってもまだまだ俺の方が大きいが――、顔つきも丸みを帯びていた頃から比べると随分しゅっとして、かっこよくなった。最近は風呂に入るのにハマっているらしい。とても温かくて気持ちいいから毎日入れてもらってるという。物好きだな、お前も。俺にはよく分からないというと、チビは大層驚いていた。


 公園に着いたとき、ベンチにはすでに婆さんが腰かけていた。

 俺を見つけた婆さんが声をかけてきた。ニコニコとしわくちゃの顔を微笑ませている。まるで何を言っているか分からないけども多分挨拶をされているんだろう。よう、そういって婆さんの隣で寝転がった。

 婆さんがまた独り言を喋り始める。ゆったりと流れる時間に沿ったように、静かで優しくて穏やかに、何か良く分からない子守歌のような婆さんの声だけが流れていく。ウトウトとして、はっと目が覚めれば婆さんはもうどこかへ行っていた。


 日が傾いて夕焼けが眩しい頃合いになれば、今度は河原へと行ってみる。腹も減ったし、飯でもと思ったが、運悪く今日もおっさんはいない。ついていないな。諦めて帰ろうかと振り返った時、夕焼けの中に紛れて歩く人間の影が見えた。片脇には大きな箱を抱えて、肩からぶら下がった紐とつながっている。

 ピンときた。俺は知っているぞ。あの中に魚が入っていることを。すぐさま小走りで人間の影に向かっていった。


 いつも通りの日常。いつも通りのまったりと過ぎ去る日常。

 俺はこれでいい。俺はこれがいい。


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