第21話 箱と輪っか3

 明美の手が輪っかにふれる。そっと縁をなぞるように、ゆっくりと。

「弘人が『ずっと言い出せなくて』って言ったのに凄く引っかかってね。聞いてみたの。なんでって。だいぶしつこく。最初は言うの渋っていたんだけど、弘人、いつかは地元に帰ってそっちで過ごしたかったらしくてね。私になかなか相談できずにいたんだって」

 つまり、この街を出て知らない土地に移動するってことか。チビも婆さんもおっさんも、知っている風景も場所もないそんな場所に移動するってことか。

「でも、前にテレビが壊れて来てくれた時に弘人決めたんだって。三人で暮らすことを夢見ているこの人をいつまでも待たせちゃいけないって。そこから色々と用意していたたみたい」

 ここで暮らしていくだけで、それだけで十分満足じゃないか。それじゃ駄目なのか、明美。

「私ね。別にどこで暮らしても変わらないと思うの。多分のんびりとテレビを見て、ご飯作って、たまにデートして。そんな日常が続くならそれでいいんじゃないかな。だから、ついていくよって返事したの。弘人、すごく嬉しそうだったな」

 輪っかに触れていた手がゆっくりと俺の手に差し出され、そっと撫でられた。

「あっち行ったら海も近いからおいしいお魚食べ放題だよ、ぶんた」

 とびきりの笑顔。今まで見た明美のどんな顔よりも鮮明でくっきりしていて、輝いている。輪っかについた石すらくらむほど、月明りに照らされた明美の顔は綺麗だった。

 胸の中に何かがすっと落ちた。あぁ、そうか。これが明美が言う幸せというやつなのか。これが幸せというのか。

 明美と俺の幸せは、どうやら違うらしい。


「俺は行かないぞ」

 こんなに震える声は初めてだった。心の中がからっぽで、それでいてむしゃくしゃする。飯を何度も食いそびれた時の何倍もむしゃくしゃする。

 月が落ちてくる音さえ聞こえそうな長い静かな沈黙だった。幸せに満ちていた明美の顔が曇り始める。口を開いて、でも固くつむって、目を泳がせて、また真っすぐ見てきて。移り変わる決心のつかない明美の顔が、余計に心をざわつかせる。

 何かを言われる前に、この気持ちをぶつけたくて仕方なかった。焦りが俺の口を進める。

「俺はこの街で生まれて、この街で過ごしてきた。他の場所なんて知らないし、違う場所へ行くのは怖い。この街で過ごす時間が好きだし、それ以外いらない。だから行きたくない」

 俺は何を言っているのだろう。俺は何でこんな事を言っているのだろう。さっき断言したじゃないか。旨い飯さえあれば、大抵の事は解決できる気概があるって。それなのに、俺は何を甘ったれたことを言っているんだ。

「一緒に行こうよ。そんなわがまま急に言わないでさ。私、ぶんたと一緒にこれからも過ごしていきたいよ」

 明美の声も震えていた。弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。今ならきっと間に合うのだろう。

『しょうがない。うまい魚食えるなら、一緒にいってもいいぞ』

 そう言ってため息一つでもついてやれば、明美も喜ぶのだろう。



 でも。どうしても。



 この気持ちが邪魔をする。今にも泣き出しそうな明美の表情さえ、むしゃくしゃさせる。

「わがままなのは明美もだろう。あの男と一緒に住みたい、一緒に暮らしたいと決めたのは明美だ。明美がわがままなら、俺だってわがままであってもいいだろう」

 叫んだ。牙を剥き出しにして、全身の毛という毛を逆立てて、俺は明美にぶつかっていた。

「明美がわがままでいたいなら、俺もわがままでいる」

 ごめんな明美。もう、だめだ。俺じゃこの心に収まりをつけられない。

「世話になったな。あの男と元気でな」

 返事も聞かず、その場を逃げ出した。



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