第22話 家出1

 ぶんたが居なくなって一週間が経った。お腹を空かせて帰ってくるかな。美味しいご飯でも用意しておけば、ひょっこり顔を出すかな。そう思って毎日猫缶を開けて出しておいた。食いしん坊のぶんたならきっと食いつくだろうと。そう思って、来る日も来る日も用意し続けた。

 でも、ここ一週間。一口も食べられた形跡はなかった。家を出て、帰ってきて。ぶんたがいたという証がすっぽりと抜け落ちてしまっていた。今頃ぶんたは何をしているのだろうか。


 どんよりとした曇り空。浮かない土曜日。部屋に差し込む光は弱々しく、部屋全体が薄暗い。鬱屈とした気持ちに拍車をかける、そんな日だ。

 弘人の顔が浮かぶ。いっそ弘人に相談してみようか。

『ぶんたとケンカしたの。ぶんたはこの街に居たいんだって』

 首を横に振った。急にそんな事を言い出せば、弘人だって混乱する。結婚が嫌になったみたいに聞こえる。

 そうじゃない。そうじゃない。私は弘人と一緒に居たい。でも、そこにぶんたがいないのが恐ろしいほど嫌なのだ。ぶんたがいない日常はきっと耐えられない。心の中なのか、それとも本当に口にしているのか。何度も何度も自分の声が繰り返し響いた。

 一秒、一秒。時は進んでいく。空はどんどん雲に厚みがまして、鉛色になっていく。春風が吹き荒れて、木々はしなっている。

 それなのにぶんたは帰ってこない。

 その事実だけが、酷く私の心を掻き乱す。ぶんたは元気なのだろうか。お腹は空かせていないのだろうか。またもう一度、会いたいと思ってくれているのだろうか。やりきれない気持ちが積もり積もる。

 ガラス戸が激しく揺れた。強烈な風が一瞬、家を揺らす。きっともうじき雨が降り始める。

 ぶんたを探そう。着の身着のまま、私は家を駆けだした。


 ぶんたはどこにいるだろうか。検討なんてつかないけれども居るであろうと思える場所は全て行って探し回った。お腹が空いているのならどこか人が居るところにご飯をもらいに行っているのだろうと思って商店街や近所を歩いた。眠くなったら寝る場所が必要だろうと、どこか雨風がしのげる場所にいるのだろうと思って、公園や河川敷を巡ってみた。

 でも、どこにもいない。ぶんたがいるという証がどこにも見つからない。


 あんなにずっとそばにいたのに、ぶんたが居そうな場所一つ分からない。その事実だけが心に重くのしかかってくる。苦し紛れに吐いた重いため息も体の外へ出ていかず、体に逆流してくるだけだった。焦れば焦るほど、出口のない後悔に潰されそうになって、体がどんどん重くなってくる。

 息が上がり、足も痛い。もう、今日はここまでかな。もう見つからない。帰ろうかと諦めて、それでもまた歩き続けた。

 まだ、諦めるわけには行かない。


 そういう諦めの悪さが功を奏したのだろうか。空は陰り、小雨が顔を濡らし始めてきたころ、ようやくぶんたを見つけた。河川敷の高架下、子供一人が入れそうな小さな空間にぶんたは小さく丸まって収まっていた。白い毛並みは薄汚れていて、目つきも少し鋭くなっている。でも、おなかの分度器のマークが見える。

 間違いなくぶんただ。あまりお腹周りが痩せていないから、きっとどこかでご飯をもらえているんだろう。

「ぶんた、帰ろう。おいしいご飯用意するから、帰っておいで」

 できるだけ優しく、警戒されないように。そっと声をかける。ぶんたは動こうとせず、じっとこちらを見つめるだけだ。返事をしない。どうしたのだろう。

 そっと手を差し出すと、低い声でぶんたが鳴いた。


 にゃー。


 嫌そうな猫の声が響く。ぶんた?

「ねぇ、ぶんた。どうしたの、猫みたいだよ。その鳴き声」

 さらに手を伸ばしてみると、逃げるように奥で丸まる。


 にゃー。


 帰ってくる声は猫の鳴き声だった。

 聞きなれているはずの、でも初めて聞く、猫の声だった。

「ねぇ、なんで。ぶんた。そんな猫みたいな鳴き声をしているの。冗談はやめて」

 叫ぶように、強引に奥へ手を伸ばした時だった。ぶんたの手が素早く私の手をたたく。驚いて手を引っ込めると同時、ぶんたは毛を逆立てて威嚇してきた。威嚇にいつもの声はなく、怖さを感じさせるほど猫の大きな威嚇の声だった。叩かれた手の甲に、うっすらと爪で引っかかれたみみずばれの跡が残っていた。

 なんで、どうして。

 声にならない声で聞いてみたけれど、帰ってくる声はやっぱり猫の声だった。結局、その日は話にならず途方に暮れて家に帰った。今の私ではぶんたを説得することは出来なさそうだったから。

 翌朝。ご飯をもってきてみると、ぶんたは姿を消していた。


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