第11話 お風呂1
寒さで目が覚めた。肩やら足やら体全てが冷えてしまっている。特に手先の末端が寒い。氷を当て付けられたみたいに冷たくなってしまっている。
ぼんやりとした視界の中で白み始めた部屋が見えた。薄暗い光に照らされた家具が淡く縁どられていて、なんだか氷の中にいるような感覚になった。誰もいない、静かな世界。その中に一人残されたような寂しさがあった。ただ不思議とお腹回りは暖かい。ぼやける視界で見てみると、何かが丸まっていた。灰色の模様、金色の二つの丸。あぁ、そうか。
視界が思考に追いついて、ようやくその姿がくっきりと見えた。お腹にピッタリ密着するようにぶんたが丸くなっていた。目を開けてじっくりとこちらを伺うように、金色のその瞳が輝いている。
「おはよう、ぶんた」
寝起きのガラガラ声がひどく耳障りだった。
「大丈夫になったか」
体勢は変えずに口元だけを動かす姿がぶんたらしい。
「大丈夫。ありがとう」
そうか、とぶんたはのっそりと起き上がる。大きな伸びをしてキッチンへと向かっていった。もう少しまどろんでいたい。でも寒い。ぶんたが残してくれた温もりを逃さないように体を猫のように丸める。お腹の温もりがじんわりと広がった。ぶんたはずっとここに居てくれたのかな。何も言わずに一晩中ここで寄り添ってくれたのかな。なんだかんだ私を思ってくれている優しさが嬉しかった。
そうやってホクホクとした温かみを感じていたのだけども、ふと気づいた。
どこからかじんわりと臭いが漂ってくる。なんだろ、この独特の臭い。土臭いというか、足くさいというか。どう例えればいいか分からないけども、心地良くない香りがどこからか漂ってくる。
動かすのをためらっていた体が力を取り戻した。どこが匂いの発生源だろう。しきりに嗅いでみる。どうもそう遠くない所から臭う。それも体を丸めた時に感じた。服の匂いを嗅いでみると、おなか周りが一番臭う。たぶん、ここが臭いの元だ。
でも、なんでだろう。首を傾げた。コートもドレスもクリーニングに出したばかりだ。昨日食べ物をこぼしたわけではない。そして何よりおなかだけが臭い。
悶々と可能性を考えては潰して、考えては潰して。ふと一つの可能性が頭に思いつく。体を起こしてキッチンへと向かう。私の考えが間違いなければ原因はそこにいるはずだ。
ぴちゃぴちゃと音を立てて水を飲むぶんた。私には見向きもしない。
ぶんたの後ろでかがむ。
「ちょっとごめんね、ぶんた」
そういって背中付近の臭いを嗅いだ。これだ。この独特なにおい。獣臭だ。
「どうしたんだ、明美」
水を飲むのをやめてこちらを振り向くぶんた。これから起こることを想定して身構えつつ、ぶんたに優しく微笑んだ。
「ぶんた。お風呂だね」
お風呂という単語に動きが止まるぶんた。目が少しずつ大きくなって、心なしかしっぽが膨らんできた。絶対に逃げてやる。そういう企てをしているのが目に見える。
見つめあうこと数秒、先に動いたのはぶんただった。私が来た方向とは逆向きに飛び跳ね、駆け始めようとした。だけど、私もそれくらいは予測している。本格的にスピードがつく前に捕まえてしまえばこちらのものだ。暴れられる前に自分の体でぶんたを抑えつける作戦でいこう。
わずかに遅れた後ろ足をがっしりと掴む。
あっという間に詰まる距離。勝った。勝利を確信した。
けれども、次の瞬間ぶんたはあろうことか水皿を前足でひっかけて盛大に跳ねのけてきた。弧を描くように飛んでくる水と皿。真っすぐに私の顔めがけて飛んでくる。たまらず手を放して顔を守ってしまった。冷たい水の感触が顔にかかり、先ほどまでの眠気を全部吹き飛ばした。
「お、やばい」
水がかかったことを確認したぶんたはひるんだ私の脇をすり抜けていった。
怒りの中から笑みすら漏れてくる。良く分かってる。そう、やばいよ。私を怒らせると。どうやって風呂に入れてあげようか。どうやって隅々まで洗ってあげようか。思いつく限りの嫌がらせがどんどんと頭に登ってくる。立ち上がると声を上げた。
「ぶんた!!」
本格的にまずいと気付いたのか、ぶんたは急いで廊下の方へ逃げていく。どたどたと足音が家中に響き渡る。
髪から滴る水もそのままにしつこく後を追いまわすが、腐っても猫。太っても猫だ。
一直線に走り抜けられる廊下では自慢の足にものを言わせ、恐ろしい速さで駆け抜けていく。退路を防いで角に追い詰めれば、軽やかなフェイントを入れて足元を通り抜けていく。再びキッチンに舞い戻り、ついに追い込んだかと思うと今度は椅子の間を巧みに通り抜け、モタモタしている間に逃げられる。
何度か同じことを繰り返し、ようやく気付く。これじゃあ埒があかない。どうにも今日のぶんたはいつにもまして本気で逃げている。しかたない、奥の手を使うか。
怒りが収まったふりをして、ゆったりとキッチンへ向かう。確か戸棚に入れていたはずだ。散らかり切った戸棚から目的の物を探して取り出す。猫缶だ。それも中々高級で、ぶんたが飛びつく大好物のものだ。
思わず悪い笑みが出てしまったけども、頬をさすってただの笑顔に戻す。そして家中に響くように、でも優しく声をかけた。
「ぶんた、猫缶あるよ」
家に響いていた足音がピタリと止み、静かさが戻る。そろりそろりと警戒しながらぶんたが様子を見に来た。
「お、本当にある」
のこのこと歩いてきたぶんたに見えるように缶詰を振って誘惑する。一歩、また一歩と距離が近づき、ついに水をかけられた時の距離感に戻る。ぶんたは猫缶にしか目が行っていなくて、もう口が半開き。油断しまくっている。
今だ。隙が出た一瞬を狙ってぶんたの両前足をつかんだ。
「捕まえた」
ようやく悪い笑みを隠さなくて済む。にっこりと微笑んだ。
「あ」
ようやく事の重大さに気付いたぶんただったが、がっしりと掴んだこの手は離すわけがない。
ぶんたの悲痛な鳴き声が家に響いた。
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