第10話 ディナー5
「それじゃあお休み」
そう言って弘人の車は走り去っていった。私だけ置いてけぼりにして、走り去っていった。
古ぼけた我が家。月明かりに照らされているはずなのに全体がくすんで見えた。ガタついた引き戸を開けると薄暗い廊下が待っている。光が差し込まない先の見えない暗闇。ヒールで疲れた足を引きずりながら手探りで居間へと向かい、手探りで電気のスイッチを押した。
光が部屋を包んだ。白色の蛍光灯の色。冷たく無機質な色。
「明美、なんだかうまそうな匂いするな」
いつの間にかぶんたが鼻をひくつかせながら足元にいた。出かける時に帰りは遅くなると言っていたからてっきり寝ているものかと思っていたけど、寝起き特有のノロノロした動きではないところを見ると今の今まで起きていたみたいだ。
「デートしてきたの、弘人と。レストランで食べたステーキの匂いだよ」
デートってなんだ。例によってまたぶんたが首をかしげて聞いてくる。
でも、今日はなんだか疲れた。慣れないことをしたからかな。何も答えずに倒れるように床に倒れこむ。危ないなとかぶんたが騒いでいるけど、ちゃんと考えて倒れこんだから大丈夫なはず。ざらざらとしたイグサの感触がこういう時に心地よい。
あぁ、ドレス。しわになっちゃうかな。ぼんやりと部屋を眺めながらそんな事を考える。
「明美、大丈夫か」
ひょっこりとぶんたが顔の前に現れる。こうやって間近で見るとやっぱり大きくなった。特にお腹周りが。
「たぶん大丈夫」
「そうか」
額面どおりに受け取ってスタスタと歩いて行ってしまうぶんた。
の足をつかんで胸元に引き寄せる。
「大丈夫じゃなかったのか」
大丈夫じゃない。だからこうしている。なにかこうやって抱きしめたい気持ちなのだ。人間は分からないなと言いながら、それでも何か私が言うのをぶんたはじっと待ってくれた。
時計の針の音が小さく部屋に響く。もう遅い時間だ。近所で起きている人もそう多くない。静かな時間が一つ、また一つと流れていく。
「ねぇ、ぶんた。私はなんで待っているんだろうね」
「何をだ」
「たった一言。結婚しよう、って言ってくれる。それだけを待っているのに、なんで弘人は言ってくれないんだろうね」
「結婚ってなんだ」
「もういいよ」
猫にはわからない悩みなのだ。きっと。私がどれだけ恋焦がれているかを説明したって、そんなものなのか、と首をかしげて興味をなくしてしまうんだ。
なら説明しないほうがずっといい。
「寒いから布団入ったほうがいいんじゃないか」
ぶんたの忠告も今はすべて無視して、今日はこのまま眠りたい。胸の中で寄り添ってくれたぶんたの体温がとても暖かった。
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