第26話 わがまま2

 息が上がっていた。私もぶんたも、それこそ文字通り死にそうな勢いだった。

 ぶんたを抱えて近くの動物病院まで走る。

 もつれる足、腕にかかるぶんたの体重、少しずつ寒くなっていく体温。全てがマイナスに突き刺さり、重く命のリミットを感じさせる。


 それでも。何が何でも。

 私はぶんたを守りたかった。

 ぶんたの命を諦めたくなかった。


 病院に着いたとき、服は真っ赤に染まっていた。靴は片方脱げて足もボロボロだった。

「この子を助けてください。ぶんたを助けてください」

 何もかも、出し切って、先生にぶんたを手渡すと、力が抜けてその場から動けなくなってしまった。

 それでも。床を這って、先生のもとについていく。

 休んでいてください。受付の女性から諭されるが、振り払って先生の後をつける。見かねた先生が椅子を用意してくれた。処置室にも入れてもらい、傍にいることを許可してくれた。


 ぶんたの治療が開始される。

 静かな部屋で先生と私と、かすかにぶんたの呼吸が満ちていた。

 一滴、一滴。血が流れていくように、水滴が落ちていくように。一瞬、一瞬が長い。果てしなく長い。

 祈りにも近い悲痛な声が頭の中で反復して、心をえぐっていく。

 どうかぶんたを助けて。


 永遠に感じるくらい長い時間祈った。

 だけど、それを切り裂いたのは無情な言葉だった。

「残念ですが、当医院でのこれ以上の処置は困難です」

 あまりにもひどい一言。思わず食って掛かる。

「どうして。ぶんたはまだ生きてます。お願い、助けて」

「ぶんた君のケガは重症すぎて、ここの設備では対応が難しいのです」

 困り果てたように首を振る先生。眉間によった皺からも、その言葉に嘘偽りがない事がよく分かる。

 呼吸器をつけて、苦しそうに胸を上下に揺らすぶんた。明らかに呼吸が浅く、ゆっくりになってきている。瞼は先ほどから閉じられたままで、一向に開ける気配がない。


 疑いようのない事実。

 今にも消えそうなぶんたの命が現実を現わしていた。

 それでも。

「ここ以外ならまだ望みはありますか」

 まだ、諦めない。ぶんたのあんな遺言みたいな言葉が最後だなんて、絶対に嫌。必死に食い下がる私に押されて、先生が後ろのめりになる。

「ここから30分ほどの場所に救急センターがあります。そちらでしたら処置も可能でしょう」

 なら、そちらだ。勢いよく立ち上がりぶんたを抱えようとするが、先生が立ちふさがる。

「ぶんた君の体力的に非常に厳しい選択です」

 苦虫をすりつぶしたように顔をゆがめる先生。

 非常に厳しい。つまり、ぶんたは30分も経たないうちにこの世から消えてしまう。ぶんたを苦しませるだけ苦しませて、結局助けられない可能性が高い。そいうことだった。

 目の前が暗くなり、足の力が抜けてしまう。ぶんたの横に横たわるように、体が倒れた。

「非常に申し上げにくいですが、ぶんた君を楽にしてあげることも検討してください」

 無情な言葉が頭上から振り落とされる。





 私は、私は、一体どうすればいい。

 目の前のぶんたの苦しみを終わらせてあげるべきなの?

 それとも、無理を承知でぶんたが生きれる可能性に賭けるべきなの?

 ねぇ、ぶんた。私は一体。


『笑っていてくれ』


 頭で繰り返されるぶんたの言葉。

 走り続けてきた中でずっと、頭の中にその言葉が鳴り響いていた。

 優しいぶんた。思いやりのあるぶんた。


 ぶんたが居ないなんて私は笑えない。

 私はやっぱり、ぶんたが居ないと笑えないよ。


「ぶんた、聞いて」

 目の前で苦しむぶんたにぐっと近づき、喉が裂けるくらいの声で叫ぶ。

「私は、苦しむぶんたの姿は見たくない。苦しませたくもない」

 大好きなぶんた。苦痛にゆがむ顔なんて絶対に見たくない。

「でもここでぶんたを諦めたら私は絶対に後悔をしてしまう。いっぱい謝りたいことがある。いっぱい話したいことだってある。このまま一言も話せずに諦めるのは絶対に嫌なの」

 私がぶんたにどれだけ寂しい思いをさせたのか。それを思うだけで胸が痛くなる。

 どれだけぶんたの気持ちを無視してしまったのか。それを思うだけで心が押しつぶされる。

「どんなわがままだって聞いてあげる。お風呂だって入らなくていいし、毎日缶詰でもお刺身でもあげる。ずっとぶんたと寄り添ってあげる」


 ぶんたが喜ぶことなら全部してあげる。

「だから、今日、この瞬間だけは私のわがままを聞いて」

 だから、せめて今日、この瞬間だけはこのわがままを聞いて。

「生きて。私も、ぶんたも。二人でちゃんと笑ってこれからを過ごしていきたいの。だから生きて。お願い」


 お願い。生きて。


 ここが診察室の中ということも忘れて、響いた声が少しずつ収まっていって、音の無い森の中のように、静けさが満ちていった。

 木霊した声がそっと時間に溶け込んだとき、静かに音が一つ鳴り響いた。


「あぁ」


 低く一言。でもはっきりと。間違いなくぶんたが返事をした。

 その一言で決心は固まった。

「先生。ぶんたを救ってください」

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