第5話 青いベンチ3

 ぶんたとお婆さんに別れを告げて早2時間。家についた私も、ようやくご飯の仕込みが終わってきた。ゆでたほうれん草にめんつゆをかけて、ゴマを和えればおひたしの完成。一口味見をしてみるとシャキシャキとした歯ごたえの後にほうれん草の苦さとめんつゆの甘じょっぱさ、ゴマの香りが代わる代わる鼻に突き抜けてくる。こんなものかなとタッパに詰め替えていると、窓を小さくたたく音が聞こえた。

「明美、いるか」

 低く鳴く声。ぶんただ。私がいなければ勝手口の猫用の入り口から入ってくるだけなんだけど、なぜか毎回ぶんたは必ず扉をたたく。ぶんた曰く、なんかあっちの出口の扉を押して入るのが気に食わないらしい。そんなわがままのせいで毎回、窓の下の方にはぶんたの足跡がちょこんと二つ残ることになる。

 縁側がある部屋へ向かうとガラス戸の向こう側、ぶんたがちょこんとお座りして待っていた。ちょっと待ってねとウエットティッシュを片手に鍵を開けた。窓を開けると、ぶんたがさっと上がり込んでくる。そのまま泥だらけにされるのも嫌なので、畳の部屋に移動する前に捕まえた。

「なぁ、明美。今日婆さんなんか変な感じだったんだ」

 持ってきたウエットティッシュで足を拭いていると、ぶんたがこちらを見て話しかけてきた。

「変な感じって」

「なんかな。今日はやけにあの婆さん喋りかけてきた気がするんだ。相変わらず何言っているかわからなかったけども、やたらやたらニコニコとしていたな」

「あぁ、多分それ。ぶんたの名前を知って嬉しかったからじゃないかな」

 肉球に入り込んだ泥などを拭きながら、ぶんたが寝ている間にお婆さんにしたことを話す。

「確かにそういわれると聞き覚えのある音が何回か聞こえたな。そうか、あれが俺の名前なのか」

 それを聞いたぶんたは、ふーんとどこか納得したような返事をした。

「ぶんたは自分の名前呼ばれているのって気付かないの」

「気付くとかそういう話の前に、まず人間の言っていることが理解できないからな。あれだ。鳥の鳴き声がいくら変わったところで、それは鳥の鳴き声にしか聞こえないだろう」

「あぁ、確かに」

 気持ちよさそうに鳥がさえずっているからと言って、それが本当に嬉しくて鳴いているのかは鳥以外はたぶん判別できない気がする。ぶんたと何気なく話しているのも普通ではないことだから、普通で考えれば確かに何か音を出しているくらいなのだろう。猫にとっても私たちの言葉ってその程度なのか。

「大体、人間はなんで名前なんて付けるんだ。特に飼われている猫には『猫』という名前じゃなくてさらに新しい名前を付ける。俺は『猫』なのか『ぶんた』なのか分からなくなる」

「猫であり、ぶんただよ。ぶんたは」

「じゃあ『ぶんた』でいいじゃないか。『猫』って名前がいらないんじゃないのか」

 屁理屈モードのぶんたがぶーたら文句を言う。猫だからにゃーたらとでも言うのかな。そんなどうでもいい事を思った。

「猫っていうのはあくまで一般的な名前だから、ぶんた一人を表すには不便なの。それに名前って私はいいものだと思うよ」

 と言って、何かいい例がないか少し考えてみる。何が一番名前の良さをぶんたに伝えられるだろうか。手を止めて思惑した先に一つ良い考えが浮かんが。ぶんたに視線を送るとビー玉のようなきれいな目がこちらを覗いていた。

「ねえ、ぶんた。私の名前言ってみて」

「なんだ急に、改まって」

「いいから」

「明美だろ」

 やれやれといった感じで気だるそうにぶんたが答える。

「そう明美。親が考えてつけてくれたこの明美っていう名前。でも言葉としてみたらただの単語でしかなくて、別にこれが明美じゃなくても私は私なんだと思うの。それこそ私が人っていう名前だったかもしれない。でもさ、やっぱりここに居るただの人が『おい、人』って呼ばれるのと、『おい、明美』って呼ばれるのだったら、私は明美って呼ばれる方が嬉しいかな。なんかそれが私だから」

「明美は名前で呼ばれるのって嬉しいのか」

 ぶんたは不思議そうに問いかける。

「うん。嬉しいかな。お父さんやお母さんが私を明美と呼んでくれること、ぶんたが私を明美と呼んでくれること。私はそれが心が通っているみたいで一番嬉しいし、ちゃんとお話しできている気がする」

 そう、だから私は私でありたくて、それを認めてくれる名前があることが嬉しいんだ。

「お婆さんが嬉しかったのもきっと『ぶんた』という名前を知って、ただの『猫ちゃん』から『ぶんたちゃん』って呼べるようになったことが大きいと思うの。猫じゃないぶんたっていう存在とようやくお喋りができたっていう感じなのかな。きっとお婆さんは嬉しかったんだと思うよ」

「そんなものなのか」

「そんなものだよ」

 ふーん、と今度はどこか腑に落ちないような返事をした。


 足が拭き終わり、膝から降りたぶんたはまっすぐと水が入ったお皿に移動していく。

「そういえばさ、ぶんた」

 ふと気になったことがあり、ぶんたを呼び止める。

「猫って人間の声、どう聞こえているの」

「どうって言われると難しいな。人間って一つの音を鳴らすような生き物じゃないからな。なんかフガフガ言っているような感じといえばわかるか」

 フガフガねぇ。おじいちゃんが入れ歯していない感じなんだろうか。

「逆に猫はどういう風に聞こえるんだ」

「にゃーって感じだよ」

 ぶんたの声真似をする。

「なんだそれ、変なの」


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