第35話 リバース
脳裏をかすめる諦めに、ギリッと奥歯を噛み締めた次の瞬間、
「先生っ! その先輩は嘘を吐いていますっ!」
まさに主役は遅れてやって来ると言わんばかりのタイミングで、この万事を休する状況に一人の女子が飛び出してきた。
その場にいる全員の視線を一身に受けてなお、背筋をピンと伸ばし迷いのない力強い足取りで歩み寄ってきたのは
「ええ? ちょっとちょっと、……えーと、君は誰、かな?」
センパイがあまりにヒーロー然とした突然の宇津木の登場に困惑して瞬きを繰り返す。
その困惑は当然だろう、センパイにしてみればここまで全く接点のなかった知らない女子が声高に嘘を吐いてると宣言してきたんだから。なにせボクだって負けじと困惑してるし。
「先生っ、この先輩はっ、乱暴を働きましたっ! あたし見てましたっ!!」
だから言い方っ!
いったん乱暴って単語を使うのやめよう!?
ボクたち以上に困惑していた
でも宇津木、その提言じゃダメだ。それだと水掛け論が始まるだけだよ……。
「いやいや見てたってそんな証拠――」
「あります、証拠」
わずかにホッとした様子で、予定通りの水掛け論に持ち込もうとしたセンパイを遮り、宇津木はたすき掛けしていたショルダーストラップをぐるりと動かし、背後から大きな一眼レフカメラを掲げる。
どやあっ! と言わんばかりに太陽光を反射して光るカメラレンズと宇津木の眼鏡に、不覚にも「やだ、かっこいい……」と、ため息が零れてしまった。
「なん、で……」
あまりにもいきなり現れた宇津木の姿に、この場にいた他の誰よりも驚いていた
おととい結構な剣幕で「二度と話しかけないで」と吐き捨てられたのだから当然といえば当然だろう。あの時の宇津木、めっちゃ怖かったもん……。
「……危なっかしいのよアンタ。今日だって一日中、まるでこの世の終わりみたいな顔して落ち込んで、そんなの、……あたしの方が悪いみたいじゃない」
視線を合わせようとはしない宇津木の苦言にしゅんと俯く。
「だから、……あんな顔されちゃったら、あたしも、ちょっと、言い過ぎたって思ってたから、謝る。ごめんなさい、みさちー」
「――っ! ……ミサミサ」
「それはダメ」
「…………うん、……ウチも、ごめんなさい」
あいかわらず視線は合わせないまま、決まりが悪そうにぼそぼそと謝る宇津木。
俯いたままぽろぽろと涙を零しはじめ、なんとか返した惣引の謝罪は、もうほとんど言葉になっていなかった。
ほんのわずかな行き違いから諍いになってしまったのに、それでも危機に瀕した相手を助けるために颯爽と現れて華麗に救い出し、涙ながらに和解する美しい友情。
……ああ、そうだよ。
――それ全部ボクがやりたかったやつ!!
まさにここまで必死でやろうとしてたのに全部うまくいかなかったやつ!!
ボクがもたもた数話もかけて、あーでもない、こーでもないって考えながら結局出来なかったやつ、そんなたった一話で出来ちゃうの!?
おまけに、更衣室でのお互いのあだ名のやり取りまで絡めて、じつはちゃんと繋がって通い合っていた友情演出まで完璧にこなすとか……。
宇津木の男前すぎる立ち振る舞いに、熱い羨望の眼差しを向けることしか出来ない。
その男前スキルってどこに売ってるんだろう……。ボクも欲しい……。
腰が抜けたままいまだに立ち上がることも出来ないボクを置いてけぼりにして、宇津木がカメラの液晶画面で岡林先生にボクが乱暴されている一部始終の写真データを見せる。
一気に形勢逆転されてしまったセンパイはついに観念したのだろう、がっくりと肩を落として天を仰いでいた。
いや、なんなのこの急展開?
簡単にまとめると、ボクが男のセンパイに乱暴されかける憂き目に遭ったってだけだよね?
おかしくない? 救出のつもりで飛び出したのに一番の被害者になってるよね?
「……なあ、もう大丈夫だから泣くなよ」
男らしい成果の一つでも残したいところだったけど、過程はどうあれなんとか惣引が無事に済みそうで良かった。
出来る限り優しく声をかけたつもりだけど、加減がわからなくておろおろしてしまう。
すると何を思ったのか、惣引は泣き顔を上げてボクを見るなり、無言でガバッと抱き付いてきた。
――――――っ!?
何が起こったのか理解が追いつかない。
えっ、タックル?
えっ、えっ、マウントポジション?
あまりにも度を超した突然すぎる事態に、おかしなことばかりが頭を駆け巡り全く言葉が出てこない。
腰を抜かして座り込んだままのボクに覆い被さるように抱き付いて、すでに記憶に焼き付くほど見た泣き顔で声を詰まらせながら、
「ひぐっ、こ、こわ、かった……、ぐすっ……」
嗚咽混じりにガタガタ全身を震わせながら懸命に切れ切れの言葉を紡ぐ。
……わかるよ。
極度の緊張から解放された途端に、一気に恐怖が押し寄せてきたんだろう? まさにボクがそうだもん。まだしばらくはぜんぜん立てそうにない。
でもまあ、打算じゃないけれど、その言葉が聞けてむしろ安心感を得られた気がする。
「ボクも、疑って……、信じてやれなくて……、ごめん」
か細く震える華奢な体を抱き締め返すべきなのだろうかと迷いながら、なんだかすっごい時間がかかった気がするけど、やっと伝えたかったことが言葉に出来た。
たった一言を言い終えただけなのに、どっと疲れが押し寄せるみたいな気分だよ。もう本当にへとへとだ。
……それはそうと、拒絶反応ってどうなったんだろう?
こんな思いっきり抱き付いても平気ってことは、やっぱりボクに対しては男らしさなんてものを、本能から微塵も感じてないってことなんだろうな。
薄々そうだろうなって勘付いてはいたけれど、こうなったら意地でもボクは男なんだって心底思い知らせないと気が済まない。
「だから、ほら……、アレ、手伝うよ」
信じてやるって決めたんだ。
だったら男らしく態度で示すのが筋ってものだし。
痛いほどきつく締め上げるみたいに抱き付いていた腕をぐいっと伸ばし、今の今まで泣きじゃくっていたとは思えないほど顔全体に疑問符を浮かべ、ボクを真正面に泣き腫らした目で見つめてくる。
何をそんな信じられないみたいな顔してるんだよ。
ボクが信じてやるって決めたんだから、そっちもボクを信じろよな。
「その、……おち、ちんちんが必要なんだろ? い、いやっ、も、もちろんっ、いきなり、ち、ちんちんってわけじゃなくて、まずは、手でゆっくり慣らしながら……」
奇しくも昨日、コイツから出された無茶な提案を返すことになろうとは。
言いながらほんとに恥ずかしくなって、口が窄んでくるんだけど。
それなのに、まるでぜんぜん知らない国の言葉を初めて耳にしたみたいに、眉を寄せながら真っ直ぐに視線を注いでくる惣引の圧に、どうにも気恥ずかしくなって耐えきれずに顔を背けて気が付いた。
「……
「ア、アンタなに普通に抱き付いてんの? え? ちんち――、な、なにが必要って……?」
まったく納得はしてないし、したくもないんだけれど、見た目だけなら言わば美少女二人が抱き合っている美しい絵画のように見えて、違和感がまったく仕事をしなかったのだろう。ルノワールも地団駄踏むほどの麗しさだったかもしれない。
ただ実際は、男のボクと女の惣引が公衆の面前、しかも生徒指導担当の岡林先生の目の前で抱き合っているわけだ。
しかも、仕方ないとはいえボクの発言を言葉のままの意味に受け取ってしまったのだろう、岡林先生は目の当たりにした光景にはっきりと震え慄き、宇津木に至ってはつい先ほど繰り広げた感動の謝罪シーンが、白昼夢か何かだったと錯覚させそうな殺し屋みたいな目で睨み付けてきていた。
ちょ、ちょっと待ってくださいよ先生?
宇津木も誤解だから落ち着こうよ?
説明を、一から順を追って説明をさせてもらえればきっとわかり合えますからっ!
きちんと話し合わないから日本の離婚率は増加の一途をたどってるんですよっ! いや、知らないけど!
ただただひたすらにマズすぎるこの事態から抜け出すため、そもそもの誤解の種である惣引に視線を戻すと、その眼差しはあいかわらず真っ直ぐにボクへと注がれたままだった。
そして、その怪訝とも驚きともいえない表情が、ゆっくりと柔らかく慎ましやかな笑顔へと変わっていく。
――瞬間。
ボクの視線は釘付けにされてしまう、為す術もなく。
ああ……、そうやって穏やかに笑ってさえいれば、本当に、綺麗なのにな。
体の中を跳ね回るみたいに高鳴りを抑えきれない心臓の鼓動が、間違っても伝わらないでほしいと祈るしかない。
だって、伝わってしまったらきっと――
そんなボクの願いも虚しく、惣引はハッとした様子で丸い目をさらに大きく見開き、涙でしっとりと濡れた長いまつげを震わせる。
そんななんでもないはずの動作でさえ、どこまでも端正に整った身のこなしみたいに見える。
ほら、小鼻をヒクヒクさせて、ほっそりとした顎を小刻みに震わせ、見てる間にその綺麗な顔を青ざめさせていく様なんて、まるで――
……うん?
それってまるで、堪えようのない、今にも突き上げてきそうな吐き気を必死に堪えてる人みたいじゃないか?
「……うっ、オエッ――」
おいっ、え、嘘だろ? や、やめろよっ?
堪えに堪えて、限界まで堪えきって絞り出された、声とも音ともつかない呻きと共に、惣引はいまだ身動きの取れないボクを押し倒すみたいに強く腕を突っ張る。
え、えっ、なんで力任せに固定するのっ!? いや、待って待って!?
そんな儚い願いも虚しく次の瞬間、さんざん綺麗だなんだと形容していた御尊顔をこれでもかってくらい歪ませて、ボクの顔に向かってその口から盛大にキラキラのやつをリバースし――
「おええええええええええええええええええええ――」
全ての思考を塗りつぶすみたいに遮られた。
けれどまあ、その後はもう語る言葉を持たない惨状だった。
響き渡る岡林先生と宇津木の悲鳴。
天を仰いでいたセンパイは、どうしてたんだろう? 視界を物理的に潰され、精神的にポッキリと心を折られたボクに確認する術なんてなかった。
一生のうちのほんの一週間ほどのわずかな期間で、二度も同じやつから顔にゲボ吐かれる確率ってどれくらいなのかな?
記憶にこびり付いて忘れることの出来そうにない、あの独特な鼻を突くような酸味のきつい……、いや具体的に言うのはやめておこう。本当に誰一人として幸せにならない。
ほんとにボクは校舎裏にろくな思い出がない。不名誉すぎる校舎裏伝説に新たな1ページが加えられてしまった。
でも、考え方を変えてみればボクにも収穫はあった。
アイツの拒絶反応がきちんと出たってことは、それはつまり本能でボクを男と認めたってことで、男らしさに触れて反応してしまった揺るぎない証拠なのだ。
……代償があまりにも大きすぎたってところに目を瞑ればだけど。
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