第8話 キュウリの子
月曜日の学校は、まだ本格的な授業も始まらず校舎や校内の各専用教室、購買や学食の施設案内などで終わった。
さすがは都会の学校だけあって、一年生のクラスだけでも7つもあり、校舎の数も田舎とはまるで比べものにならなかった。こんなに階数の多い建物なんて、私の育った田舎では役場くらいしかない。
入学式の時にあれだけ人酔いして体調を崩してしまったが、事前の心がけさえしっかりしていればなんとか乗り切ることが出来た。
見る物の多くが新鮮に映り、意識が逸れていたことも幸いした。
「クラスメイトはジャガイモやカボチャ、ニンジンにピーマンだと思えば平気ですよ」
はつゑ御婆様にそう教えられて、お経のようにブツブツ小声で繰り返し繰り返し唱え続けていれば、本当にクラスメイトが野菜にしか見えなくなってなんとかなった。
ただ、一つだけ懸念材料があった。
当然だけれどクラスメイトの半分は男子生徒だ。
何も知らないまま、不用意に話しかけられることだって普通に起こりえる。
「この、小型催涙スプレーを相手の目に吹き付けるのです。大抵はこれで事足りますが、それでも怯まない相手には、このコンパクトタイプのスタンガンを押し当てるのです。遠慮はいりません」
やはりはつゑ御婆様が事前に準備してくれていた、小さなスプレー缶とスイッチを押すとバチバチッと小さな稲妻がほとばしる手のひらサイズのスタンガンを、仏壇前の座布団みたいな柄の巾着に入れて手渡された。
これを使うのはさすがにやり過ぎだろうし、万が一、使うことになったとしても最終手段な気がするけれど、御婆様が私のことを思って用意してくれたのだからありがたく受け取ることにした。
しかし、いざ一日を振り返ってみると、当初の懸念とは裏腹に男子生徒から話しかけられることはなかった。
むしろ少し距離を置かれているような気さえしたが、無駄に近付かれずに済むならそれに越したことはないので、私としては願ったり叶ったりだった。
そして待ちに待った放課後となった。
さあ、ここからが本番だ。
クラスが違っているため放課後までまったく顔を見ることはなかったが、清掃作業のために更衣室でジャージに着替えて集合場所の教員玄関に行くと、入れ違いですでに瀬尾悠理は指示を受けて持ち場に向かった後のようで、
「瀬尾君には校舎裏の方をお願いしたから、
と、保健室業務と兼任で生徒指導担当までして激務なのだろう、白衣姿の
……うーん。
前庭とはどのあたりのことを言うのだろう?
いま立っている教員玄関前には、きっと剪定師が整えているのであろう庭木が植えられているが、ここが前庭なのだろうか?
そういえば校舎裏の方にもっと庭と呼ぶに相応しい場所があった。校舎案内の時に目にしていくつか古びたベンチが設置されていて印象に残っていた。
これはもう確認のためにもそちらに行ってみる必要がある。
行ってみた先で瀬尾悠理に「前庭ってどこなの?」って聞いてみるのもいい。
うんうん、我ながらじつに自然な流れだ。
善は急げと言うし早速向かおう。
てくてく歩いて校舎裏を目指していると、意外にもあっさりと瀬尾悠理の姿を見つけた。
こちらに背を向けているけれど、面倒くさそうにのろのろと箒を動かしているのが遠くから見てもはっきりとわかる。
しかし、ジャージ姿のうえに後ろ姿だともう完全に女の子にしか見えない。たぶん前から見ても女の子に見えるに違いないけれど。
……やっぱり、不用意に声をかけたりせずにこのまましばらく様子を窺っていれば、何か魔法が解けるみたいに女の子である証拠みたいなものを、ポロッと出したりするのではないだろうか?
なんだったら、男の子の証拠であるものをポロッと出したりしてくれてもこの際、一向に構わないし。
そうやって思案をめぐらせていると、ふと気になる光景が私の目に飛び込んできた。
ほんの少し前方に、望遠レンズというのだろうか、まるでミサイルでも撃ち出しそうな長く伸びた大きな黒いカメラを、植木の陰から瀬尾悠理に向かって構えている女子生徒がいた。
……何をしているんだろう?
足音を忍ばせたつもりはないのだが、私が近寄っていることにもまったく気が付く様子もなく、その女子生徒はカメラに顔をぴったりくっつけて身じろぎ一つしない。
「ねえ」
「ぃひいっ!?」
張り詰めるほど集中しているみたいで、邪魔になるかもと少し躊躇ってしまったが思い切って声をかけると、女子生徒はカメラを取り落としそうになりながら驚いて首を竦めてしまった。
しかしすぐに、取って返すみたいにカメラを素早く持ち直すと、すぐ側の花壇に向かってレンズを構えて、
「う、うーん……、逆光で構図がイマイチね……。って、あら? あ、あたしはお花を撮影してただけなのだけど何か用かしら?」
と、ずれた眼鏡をクイッと直しながらこちらを見ようともせずカメラで花壇を指し示す。
ピュ~っと口笛でも吹き始めそうなほど涼しげな表情を作っているが、眼鏡越しの目が泳いでいるどころか溺れかけている。
「いえ、用は特に――」
その教科書に載せたいくらいにたどたどしい態度に私はハッとした。
――もしかするとこの眼鏡の女子生徒も、私と同じく瀬尾悠理の秘密を探ろうとしていたのでは?
考えてみれば当然だ。
あんなに目立つ存在なのだから、誰だって気になって然るべきだろう。
これは図らずも、目的を共にする願ってもない同志を得たのかもしれない!
誰かは知らないけれど仲間は多いに越したことはない。
「……って、アンタ、
誰だか知らないはずの眼鏡の女子生徒は、意外にも私の名前を知っていた。
地元の田舎から遠く離れたこの都会に越してきた私には、地元の同級生なんてもちろん、知り合いでさえ一人としていないはずなのに。
「私のこと知ってるの?」
「知ってるわよ。同じクラスなんだから」
「同じクラスだったの? えーと………………、あっ、キュウリの子!」
「キュウリの子!?」
仮想お野菜クラスメイトのキュウリさんと仮認定していた子だった。別にキュウリみたいな顔をしているとかってわけじゃなく、適当に当てはめていただけなので他意はない。
「あ、キュウリは嫌だったかしら? だったら長ナスにしましょうか?」
「なんの話してるの……?」
「キュウリにはめられるのは不満なのかと思って。長ナスだったら満足できるかしら……?」
「満足ってなに!? てか、なにをはめる気なのよっ!? 変態なのアンタッ!?」
カメラを突き出して私と距離を取りながら、女子生徒が顔を真っ赤にして抗議してくる。
まさか、お野菜クラスメイトが都会では変態扱いされるなんて……!
普通の長ナスで満足出来ないのなら太めの米ナスにする? って確認しようかと思ったけれど止めておこう。
「ご、ごめんなさい。私、田舎から越してきてこの学校には一人も知り合いはいないし、入学式は保健室に行ったきりだったから……。お名前、教えてもらっても良いかしら?」
私が保健室で眠っている間に、式後のHRで担任が生徒名簿を読み上げるクラスメイトの確認は済んでしまったようで、その場にいなかった私は当然ながらクラスメイトの名前をただの一人も知らなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます